車谷長吉との結婚生活は「修行でした」 夫人が語る

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 1993年に「鹽壺(しおつぼ)の匙」で芸術選奨文部大臣新人賞と三島由紀夫賞、98年には「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受けるなど、輝かしい受賞歴の一方、執筆を巡るトラブルや、強迫神経症に脳梗塞、と病歴も数々。昨年5月、誤嚥による窒息のため69歳で亡くなった作家の車谷長吉(ちょうきつ)氏(本名・嘉彦)。妻で詩人の高橋順子さんは、氏との結婚生活を、こんな言葉を用いて総括する。それは、「修行」であったと――。
 
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 車谷を「無頼」と考える方もいらっしゃるようですが、私はそうは見ていませんでした。ただ、傍若無人であることに間違いありません。とにかく行儀が悪くて人の事を考えない。

 まったく、道で立小便はするし、うんちもしちゃいますからね。昔、駒込交番の近くで立小便をしていたら、警官に「貴様!」と怒鳴られたと言うのです。それでも車谷は「途中では止められないから」と言って最後まで続けた、と。ある時は交番の近くでうんちをしていたら、やはり警官に怒られて、持ってきたシャベルで埋めるよう指示されたと言うのです。これはどちらも同じ話で、どちらが本当なのかは分からない。車谷は本当に話を作るのが好きな人でした。

 私も嘘を書かれてしまったことがあります。エッセイの中で「嫁はんはミス東大だった」と書いたのです。なぜそんなことを書いたかというと、その前に車谷が私に「あんたの器量は十人並以下だ」と言うので、「十人並ならまだしも、以下はあんまりだ」と怒ったら、その仕返しの意味を込めて書いちゃったのです。この騒動は、車谷に次のエッセイで「あれは真っ赤なウソだった」と書いてもらうことで丸く収まりました。

■「この世の道づれに」

 87年、車谷が私の詩を読んで絵手紙をくれた。それが私たちの出会いのきっかけです。それから1カ月に1枚ずつ、合わせて11枚の絵手紙が届きました。絵手紙が途絶えた後、90年に私は「現代詩花椿賞」を受賞します。その際、授賞式の招待状を送ると車谷は来てくれたのですが、私には顔を見せずに帰ってしまった。ところがその年の大晦日、突然「お祝いを渡したい」と電話がかかってきて、私の住んでいたアパート近くの喫茶店で会いました。この時初めて顔を見たのですが、会社勤めをしていた頃ですから、身なりはきちんとしていて、私に積み木のセットをプレゼントしてくれました。しかし、それ以降は黙ってこちらを見ているばかりで、ほとんど会話にならない。呼び出しておいて喋らないのですから不気味でしたよね。

 私はその頃、1人で「書肆とい」という小さな自費出版の出版社をしていました。車谷がそこから小説を出したい、と言うのでやり取りが増えていった。当時、車谷は「鹽壺の匙」を99部限定で「書肆とい」から出版し、あとは京都に行って出家するんだと話していました。ですが書き終えた後、ずっとお世話になってきた「新潮」編集部の前田速夫さんに原稿を読ませたいと持っていったところ、読んだ編集長の坂本忠雄さんは「自費出版にかかった費用も全部ワシが出す」と言ってくれた。それで「鹽壺の匙」は92年に新潮社から出版されたのです。

 その後も車谷の出家の意思は変わらず、私は遠くに行って欲しくないと強く思い、「この期に及んであなたのことが好きになってしまいました」と手紙を送った。すると車谷から「こなな男でよかったら、この世の道づれにしてくだされ」と返事がありました。

 しかし、車谷がどういう人なのか、私には分かっていませんでしたね。つまるところ、私の前では猫を被って大人しくしていたのです。最初は口数が少なかったのも次第にお喋りになっていったし、私の友人であれ誰であれ、悪口だったり、ひどいあだ名をつけたりして書いてしまうのですから。徐々に傍若無人の本性を現していきました。あとは、感心するくらい何にでも好き嫌いがありました。縦縞は好きだけれど、横縞は嫌い。花屋の花は商品花だから嫌いで、野の花でなければ駄目。瀬戸内海にいない魚は口にしない。

 車谷はお風呂に入ろうとしません。結婚した当初はきちんと毎日入っていましたが、次第に入らなくなっていきました。また、家ではトイレの扉はいつでも開け放して用を足していました。理由を聞くと、「だって扉を閉めたら臭いだろう」と。あと、外を出歩く時もズボンの前は開けたまま。トイレが近いからだと言っていましたが、他人には「愚か者のダンディズムだ」なんて気取っていた。2人で外に出ると、必ずと言っていいほど、中高年の女性が私の肩をぽんぽんと叩いて、「お連れ様の前が開いていますよ」と耳打ちしてくるのです。

 また、家の周りのヒキガエルに1匹ずつ名前をつけていました。自分の出身地から飾磨丸や飯岡丸、醤油の名前で東丸、キッコーマンというのもいました。私がいない時には家の中にあげて遊んでいるのです。ある晩、私が遅くに帰宅すると玄関に大きなガマがいて、三つ指をついて出迎えられたこともあります。

 私にとって車谷との結婚生活は「修行」でしたね。文学的な面でも、生き方の面でも、非常に濃密な時間でした。ある人は「物書きが一緒になると、家の中に虎が2匹になって危ない」と言いましたが、猫を被った虎との生活も、互いに2階の北の外れと1階の南の外れに書斎を持ったことで、気兼ねのない楽しい日々でした。

特集「デスパレートな妻たち Season5」より

週刊新潮 2016年12月22日号掲載

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