「年寄りが先に逝く」という常識を復権せよ〈医学の勝利が国家を亡ぼす 最終回〉

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 いずれ団塊の世代が後期高齢者になれば、医療費の膨張は今の比ではなくなる。それでも高齢者に延命治療を際限なく施せば、国家が亡びてしまう。この国を次世代に継承するために問われているのは、われわれの死生観である。すなわち、年寄りが先に逝く――。

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麻生太郎氏

「90歳になって老後が心配とか、わけのわかんないことを言っている人がこないだテレビに出てた。“おい、いつまで生きているつもりだよ”と思いながら見てました」

 6月17日、北海道小樽市の自民党支部大会でこう語ったのは、麻生太郎副総理兼財務相。参院選前という折から、失言を十八番(おはこ)とする政府重鎮が蒔いた新たなタネに、野党の党首は「高齢者に失礼」(民進党の岡田代表)、「人間の尊厳を否定する」(共産党の志位委員長)などと、こぞって噛みついたが、はたして、これは失言といえるのか。

「90歳のお年寄りが老後を心配していたら、普通は笑ってしまうでしょう。表面的な“舌禍”の話にしてしまっても、無意味です」

 臨床医の里見清一氏はそう指摘する。漢字が読めず、不用意な言葉が多い麻生氏だが、この発言は、人間は死すべきものだという動かぬ真理を伝えている。そこから目を遠ざけたら、より良く生きることも、より良い社会を築くことも、できないのではあるまいか。

 誤解がないように断っておくが、90歳の高齢者はすぐに死ぬべきだ、とはだれも言っていない。避けられない死をいたずらに忌避しても、むしろ人間の尊厳が損なわれかねず、そのうえ次世代にツケを回すだけだと指摘しているのである。

養老孟司氏

 麻生氏が俎上に載せた90歳の老人は、自らの生への執着を語ったのだと思われるが、解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司氏は、

「僕は、死とは社会的関係だけだ、と考えたほうがいいと思うんです」

 と言って、こう続ける。

「一人称の死、つまり自分の死は、考えても無駄だし、無いんです。“俺は死んでる”と思うときは、まだ生きていますから。また、今この瞬間も世界中で多くの人がご臨終ですが、そういう三人称の死は自分にまったく関係がありません。ですから身近な人間の死だけが死であって、死んで大変なのは周りなんです。死は自分のものではないという常識が、まだできていません。生死に関わることは社会問題なのだという常識が、必要だと思います」

 養老氏が言う「社会」をもう少し広げて考えてみたい。とめどない少子高齢化により、とりわけ団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる2025年ごろには、医療費と介護費の合計が75兆円と、今より25兆円も増えそうだという。放っておけば、再三述べてきたように国家が亡ぶ。高齢者が生物としての「寿命」に逆らってまで高額な医療費を使いつづけ、その末に破綻が訪れれば、われわれの子や孫たちには、老後を心配する余裕すらなくなってしまう。その意味で死は「社会問題」なのである。

 ところが、死に正面から向き合う姿勢が日本人から失われた――。そう指摘する人は多い。終末期医療全般に取り組む東京大学名誉教授の大井玄氏も、その一人である。

「昔は8割の人が自宅で亡くなっていましたが、今は逆に、8割くらいの人が病院で亡くなっています。そう変化する過程でなにが起きてきたかというと、死を見なくなったのです。昔は死が今より身近なものでしたから、われわれは生老病死という自然のプロセスを、自然なものとして受け入れていました。ところが今日では、死を遠ざけることによって、死とはよくわからない、恐るべきものだ、という意識が非常に強くなったと感じます」

 その結果、医療の現場でなにが起きているか。厚労省出身の外科専門医で、日本医療政策機構エグゼクティブディレクターの宮田俊男氏が、その一例を語る。

「大学では、かなり高齢のがん患者でも亡くなる間際まで、抗がん剤を投与されている例があります。あるいは超高齢で肝硬変で亡くなるリスクが低い人に、肝炎ウイルスを消失させる超高額な薬を投じたり、近い将来には高齢の患者に人工心臓を装着し、重度の認知症があってもなかなか死ねないようになる。それで人間は幸せなのでしょうか」

 しかし、それは必ずしも、患者自身が望んでいることではないというのだ。

「いろんな患者さんを見てきて、明治、大正、昭和一桁までの方は、戦争で亡くなった知人のためにも生きる義務がある、とおっしゃいます。一方、それ以後に生まれた方は、“オムツや食事の介助が必要になったらどうしますか”と聞くと、10人中9人が“まっぴらごめん”と答えます」(国際医療福祉大学大学院の高橋泰(たい)教授)

■尊厳ある死は低コスト

 先の大井氏も言う。

「私が看取り医として直接対応するのが、胃瘻(いろう)の問題ですが、実は、人間は認知能力が相当低下していても、自分の身に関して環境から与えられる情報は、理解できるものなんです。たとえば、90歳近い認知症の女性が誤嚥(ごえん)作用を起こして入院され、担当の医師が“胃瘻をつけたほうがいい”と勧めた。ところが、私が患者さん自身に“お腹に小さな穴を開け、管から栄養を入れるのがいいと言う人もいますが、あなたはどう思いますか”と聞くと、顔をしかめて“嫌です!”と言ったんです。ほかの認知症高齢者も、同じ状況では同じ反応を示した。結局、患者が胃瘻について“嫌だ”と言う割合は、認知症の方も非認知症の方も8割で、数字がピタッと合いました」

 大井氏は、認知症の人にも備わる判断能力を、

「おそらく、われわれが40億年かけて進化する過程で育った能力で、“理性”と言ってもよいもの」

 と推測するが、死と向き合わないこの社会においても、実のところ、いたずらな延命を望む人は、決して多くないようなのだ。

日本医師会の横倉義武会長

 それについては、日本医師会も承知しており、横倉義武会長が言う。

「終末期の医療のあり方については、自分の意思をしっかり表示していただきたいと思います。最近では、入院時などにリビングウィルを示される高齢の方が増えてきました。今後は人間としての尊厳、生活の質を、より重視した対応が考慮される必要があると考えています。人間の尊厳と医療については、もっと議論を深めなければいけません」

 日本尊厳死協会副理事長で医師の長尾和宏氏は、過剰な延命治療に警鐘を鳴らして、こう語る。

「今の日本は延命治療にお金をかけた結果、皮肉にも患者の尊厳を損ねている場合が多い。厚労省の調査によると、国民の7割が“終末期をすごしたい場所”として“自宅”を希望しています。誤解してはいけないのは、経済的理由で延命治療を控えろとか、在宅で看取れという話ではないということです。尊厳ある最期を求めていくと、自ずとコストがかかりにくいはずです。後期高齢者医療のコスト増加と、患者の求めている人生の最終章の医療との間に乖離が起きていることこそ、一番の問題です。望んでもいない過剰な延命治療が続き、それが社会の負担になっている現実を、直視する時期にきています」

 そして長尾氏は、

「医療経済の問題と終末期における人間の尊厳は、両立するものです」

 と訴えるが、「尊厳ある最期」の普及を悠長に待つにしては事態は切迫しすぎている。その間、たとえば年間3500万円かかる「ニボルマブ(商品名オプジーボ)」など、続々と登場する高価な「良い薬」を、漫然と延命治療に注ぎ込めば、やはり国家がもたない。

 だから里見清一氏は、

「75歳以上の患者には、原則として延命治療をやらず、対症療法をしっかり行う」

 ことを提案するのだ。

「若い人のようには働けない高齢者の割合が増え、医療が高度化してコストが増せば、今のままの医療を続けるのは原理的に無理。ほかに公平で、科学的で、倫理的にも正しい方法があれば、そちらがいいのですが、私は寡聞にしてほかの方法を耳にしたことがない。元厚労副大臣の鴨下一郎代議士は、余裕がある老人の負担を増やせとおっしゃっていましたが、それで足りるはずはない。また、余計に支払った分が自分の子や孫のためでなく、赤の他人の老人を養うために使われるとして、余裕のある老人は納得するのでしょうか」

 また、75歳という線引きについて、こう説明する。

「平均寿命のほうがいいのではないか、という方もいますが、最初は85歳で線を引き、消費税のように少しずつ下げていく、というほうが嫌でしょう。ペンシルベニア大学副学長のエゼキエル・エマヌエル先生のレポートにあるように、75歳をすぎると生産性が大きく落ちる。であれば、そのくらいの年齢で線を引くのが妥当だと思う。もちろん、すぐに死ね、というのではなく、その後には余生があり、そこで大病を患ったら寿命だ、ということです」

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■普通に暮らしていればいい

 東京都立墨東病院の救命救急センター部長、濱邊祐一氏も、救急医療が高齢者に占拠されつつある現状を踏まえて、こう話す。

「救急医療に年齢制限をかけてはどうか。たとえば救命救急センターに入れるのは、75歳未満の患者さんのみで、それ以上はお断りにする。そうすれば、自分がやがて死ななければならないということが、国民レベルでわかってもらえる。そういうはかない希望を持っています。高齢者は死の迎え方を考える必要があります。それが、社会を継続する方法だと思うんです」

 われわれの子や孫に、この社会を引き継ぎ、国民皆保険制度を守る。そのために、必ずしも本人の幸せにつながらない延命治療は、控えようというのだ。

里見清一氏

「日本はこの半世紀、金持ちも貧乏人も受ける医療は同じでした。そこに、いきなりギリシャのような破綻が訪れたら、どんな混乱が起きるか見当もつかない」

 と里見氏。試みに、ギリシャ在住のジャーナリスト、有馬めぐむさんに尋ねた。

「2009年秋に金融危機が発覚すると、翌年夏には、無料だった国公立病院の診療費の一部が自己負担になり、14年までに年金は平均で3割、最大5割カットされた。こうして年金生活者が貧困化し、中間層も給与カットとリストラで貧困層に。若者の失業率は6割を超え、公共サービスの停止は日常化。そんな中、それまで私立病院に通っていた層が国公立病院に流れたせいで、診療や手術がいつまでも行われず、処方箋をもらうのに何日もかかるのが常態化しました。治療に必要な薬もなく、医師や看護師の給与が十分に支払われず、人材が国外に流出するようになりました」

 日本がそうなることを望む人など、一人もいないのではないか。だが、そうならないための処方箋が、だれにも平等に訪れる「死」を自然に受け入れることだとすれば、あながち難しいことではないだろう。

 JT生命誌研究館館長の中村桂子さんが言う。ちなみに「生命誌」とは、生き物すべての歴史と関係を知り、生命の歴史物語を読みとる作業だという。

「私は今年80歳で、生物学的にあと何十年も生きられると思っていません。そんな中、今年5月に健診を受け、その結果をかかりつけ医に見せたんです。先生は“あなたが50代ならいろいろ言いますが、あなたの年齢では当たり前のこと。気にしないで普通に暮らしていればいい”と言われました。先生に“車だって乗るうちに油が漏れたりするでしょ”と言われて納得しました。長く使った車は性能は新車に劣っても、たくさんの思い出がある。老いていく自分もそういうものだと思います。今生きている自分をどう認めていくか。そう考えたほうが上手に年をとれると思います」

 そしてアンチエイジングに疑問を呈し、続ける。

「生物にはエイジ、つまり寿命があります。普通は70、80、90歳と衰えながらも、その姿のままで生きていくものです。ところが今の社会は完璧でいなければならないと考えるから、だれもがその先にある死を、大きなマイナスに感じるんです。私は“ライフステージ”を考えることが大事だと思う。人は赤ちゃんとして生まれ、老いて死んでいきます。当然ながら、人の一生はつながっています。政府や医療は個人を“高齢者”や“若者”という言葉で区切りますが、人生の中で今、どこにいるのかを見ることが大事だと思います」

■次世代を考えるのが生き物

 養老孟司氏も、

「当たり前ですが、死に方を考えるときには、生き方を考えないといけない」

 と説き、こう続ける。

「ホスピスの人が言うには、90歳をすぎた老人が、毎日、死にたくないと嘆いているそうです。では、90歳まで何をしてきたのか。きちんと勤め、決まった仕事をして、決まった給料をもらい、その間は相当我慢していた。でも、そういう状態は“生きている”のではないから、年をとってから生きようとする。みな“好きなことをする”とか言いますが、それは生きることを先延ばしにしたということ。だから最後のところで折り合いがつかなくなるんです。昔は、インテリは生きがいとか人生の意味とかについて、青臭い議論をしたものですが、今は年をとってからもやらなくなってしまった」

 生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることだ、という常識を取り戻す必要がある、ということだろう。先の大井氏は、

「救命救急など、一部の延命治療に年齢制限を設けるなど、ある種の手続きを制度的に組み入れるのは、だれもが自分の死に方について考えるための、いいチャンスになると思う」

 と、死についての学びの大切さを説く。

「今は老いや死について考えたくないという気持ちが強い。やはり老いと死については、周囲から教えられることが大切で、そういう学びの機会を、小学生のうちからどんどん与えてあげることです。老人ホームに行って入居者と遊ぶのでもいい。できるかぎりお年寄りと一緒にいるのが、一番手近なやり方です」

 より良く生きるためには、だれもが死と向き合い、死について考えなければいけない。それが子や孫に、真っ当な社会を引き渡すことにつながるのである。

 中村桂子さんが言う。

「30代でこの病気はまずいから治療しようとか、40代で糖尿の気があるから運動しようとか、80代なのだから無理して治療はしないとか、人の一生の中でその都度判断することです。そして、今は超高齢化への対処に追われていますが、本来は、今の30代が10年後にどうなるか、50代がどうなるか、それを予測して社会を構築していくべきだと思います。今は周りのことより自分のこと、という社会になってしまいましたが、今、われわれが考えなければならないのは、自分の世代ではなく、次の世代のこと。次世代のことを考えない生き物は滅びます。自らではなく集団のことを考えるというのは、生物学の基本なのです」

 麻生財務相がやり玉に挙げた90歳は、次世代のこと、集団のことを考えていたのだろうか。自身のライフステージにおけるそれぞれの地点を、矜持をもって生きることができていたのだろうか。むろん、無理をせずにさらに長生きできるなら、それに越したことはないが、今、心配すべきなのは自身の「老後」以上に、子や孫の将来である。

「私は、私の娘よりも先に死ぬべきだし、私の母は私より先に死ぬべきです。間違いなく、だれよりもそう思っているのは、私の母自身であるはずです」

 と里見氏。医学の勝利が国家を亡ぼすことにならないためにも、年寄りから先に逝く、という常識が息づく社会を、もう一度取り戻さなければなるまい。

「短期集中連載 医学の勝利が国家を亡ぼす 最終回 『年寄りが先に逝く』という常識を復権せよ」より

週刊新潮 2016年6月30日号掲載

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