「私たちより、病院取んのね!」看護師たちの苦渋の決断〈原発25キロの病院に籠城した「女性看護師」の7日間(1)〉

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■母親失格

 4階の療養病棟に勤務する看護師、野口真理子(仮名、当時45)もそうだった。

 15日夕、年長の職員である野口はスタッフに話した。

「避難するかしないかは、自分の意思で決めてほしい」

 結果、その場にいた看護師全員が避難を選択した。

 野口自身、母子家庭の母として高3の息子と2人暮らし。娘は避難指示区域の嫁ぎ先から、孫を連れて逃れてきたばかりだった。

「正直、誰かが残るなら、私も子どもと一緒に避難しようと思っていたけど、まさか誰も残らないとは。もう、私が残るしかない」

 野口は家族説得のため、1時間だけ家に戻った。待っていたのは、娘の怒号だ。

「私たちより、病院取んのね! 患者さん、取んのね!」

 何よりつらかったのは、初めて見る息子の涙だった。

「患者さんにもママしかいないかもしれないけれど、俺にも世界中で母親と呼べるのはあなたしかいない」

「ママは戦争にいくわけじゃないんだから」と、背中で振り切って病院に戻った。

「医療従事者としてはいい選択だったと思う。でも母親としては、一生負い目に思います。母親失格ですよね」

 結果、彼女しか残らないという事態を受け、もう1人の看護師が「野口さんが残るなら」と手を挙げた。

■「3日、がんばろう」

 重症患者を抱える2階北病棟の師長、中山敦子(仮名、当時40)には、小学4年と2年の娘がいた。病棟の責任者として14日から泊まり込んではいたが、娘を夫の実家まで避難させるとは、家を出る時には夢にも思わないことだった。

 14日夜、知り合いの原発作業員から「危ない」と聞き、中山は夫に電話をした。

「お願いだから、娘たちを連れて、山形へ避難して」

 朝、家を出る時に寝顔を見ただけ。まさか、それが子どもたちとの別れになってしまうとは……。

「子どもと話すと心が揺らぐので、電話で声も聞きませんでした。私もきっと、泣くだろうし。それでも、ここにいないといけないと思いました」

 残ったのは、中山ともう1人だけ。その看護師にも同年代の子どもが3人いた。

「2人でがんばろうと思いました。他はみんな若くて子どもも小さいし、これから子どもを産んでいく世代だから、避難を止めることはできない」

 外来の師長、石井芙美子(仮名、当時60)も病棟の手伝いのために残った。娘夫婦と同居、幼い孫が3人いるが、娘は「お母さんを待つ」と、市の避難誘導を拒んで子どもと家に残った。

「娘と孫を犠牲にしてでも残ったのは、長年お世話になった“宿命”と思ったの」

 医局秘書の事務、木村愛(仮名、当時27)も、残るという選択をした。自宅が避難指示区域となり、母と妹弟が避難所に身を寄せていた。16日に市のバスで別の場所へ移動することが決まったという。

「事務長に“母達が避難するので一緒に行きたい”って言ったら、今は人もいないし避難されると困ると止められました」

 家もない、帰るところもない、家族がバラバラになってしまう、不安のあまり木村は守衛室で泣いた。

「でも部長さんや年配の方々が残っているのに、やっぱり置いていけない」

 その頃、部長の藤原は、不安に揺れる各病棟を激励して回っていた。

「大丈夫だから! 3日、がんばろう! 3日だよ!」

「3日」というのは、院長の考えだった。

「これから先という遠大な事を考えるのではなく、とりあえず3日だ。3日単位で考えろと指示を出した」

(文中敬称略)

 ***

(2)へつづく

「特別読物 迫る放射能汚染! 医療物資搬入停止! 原発25キロの病院に籠城した『女性看護師』の7日間――黒川祥子(ノンフィクション・ライター)」より

黒川祥子(くろかわ・しょうこ)
1959年、福島県伊達市生まれ。東京女子大学卒業後、専門紙記者、タウン誌編集者を経て独立。家族や子どもを主たるテーマにノンフィクションを発表し続ける。主な著書に『誕生日を知らない女の子』(開高健ノンフィクション賞受賞)、『子宮頸がんワクチン、副反応と闘う少女とその母たち』など。橘由歩の筆名でも『身内の犯行』等の著作がある。

週刊新潮 2016年3月17日号掲載

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