【「田中角栄」追憶の証言者】角栄の懐の深さに「竹下登」が泣いた日があった――齋藤隆景(新潟県議会議員)

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 1985年2月に角栄が脳梗塞に倒れると、田中派所属の竹下登蔵相(当時)は反旗を翻し、自派閥「経世会」を立ち上げた。2人のわだかまりは終生解けなかった、というのが政界での定説だが、齋藤隆景・新潟県議(71)は、“オヤジの真意”に触れて竹下が泣いた日を鮮明に覚えていた。

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田中角栄

 世間的に竹下先生が派閥を割った経緯は、「総理へのステップである幹事長にしてくれない角栄に反発した」「復権を目論む角栄を見限った」との見方が一般的です。でもね、僕に言わせれば事情は全く違うんです。

 経世会ができる2~3年前、僕は竹下先生に地元団体の大会に出席して欲しいとお願いしたことがありました。当時、先生は3度目の大蔵大臣というお立場にありましたが、「田中先生の選挙区内のことですから」と快諾してくれたんです。

 僕はその足で目白に報告に向かったのですが、するとオヤジは無茶苦茶に怒り出しましてね。もう、机をひっくり返さんばかりの勢いでまくし立てたんです。

「あんたたちは『竹下なんて』みたいな言い方をするが、相手は大蔵大臣だぞ! 大蔵大臣を何回もやってもらってるのは、将来、自民党を背負って立つ人だと思うからだ! 国を束ねるには財布の中身を知っていないとできねぇんだよ! だから、みんなが『幹事長にしろ』のなんのと言っても、大蔵大臣をやってもらってるんだ。オメェらみたいな奴らが安っぽく使うためじゃねぇんだ!」

 そして竹下先生の事務所に電話をかけて謝っていた。それでも結局、竹下先生は来てくれたんですけどね。

 オヤジが亡くなって数年後の正月に、都内のホテルで竹下先生と奥様にばったりお会いしたことがありました。お誘いを受けてお茶をご一緒したのですが、僕はお伝えできるうちにしなければと、先の『オヤジの真意』をお話ししたのです。

 すると、竹下先生は「うううっ……」と涙を流してオロオロと泣き出したのです。僕が慌てて「失礼しました!」と謝ると、奥様も先生と同じように真意を汲んで下さっていて、「そうじゃないんですよ……」とフォローしてくれました。

 おそらく、竹下先生にもオヤジへの誤解があったんでしょう。「幹事長になれないのはオヤジのせいだ」と恨んでいたんじゃないか。でも、最後にオヤジの懐の深さに触れたことで、つい涙が零(こぼ)れたんだと思います。

「ワイド特集 再び振り返る毀誉褒貶の政治家の魅力的実像 二十三回忌『田中角栄』追憶の証言者」より

週刊新潮 2015年12月17日号掲載

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