【「原節子」の後半生】隠し撮りジャーナリストにカレーをふるまったメディア攻防戦

エンタメ 芸能 週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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「引退」後の原節子は、穏やかな隠遁生活を送る一方、マスコミの接触を頑なに拒んできたことで知られる。数多挑んでは跳ね返されてきたこの壁から、頭を覗かせた唯一のジャーナリストが、斎藤充功(みちのり)氏(74)。ふとしたことで、手作りカレーをふるまわれたというのだ。

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 1989年、昭和が終わりを告げた年の晩秋である。

「あの時の方ね。フィルムを有難うございました」

 垣根越しに挨拶した斎藤氏に、庭の中からそう微笑みかけた、齢69の原節子。呆気にとられる同氏だが、落ち葉を掃く手を休めた原は、続けて驚愕の一言を発したという。

「お食事はまだかしら。カレーライスくらいならお出しできるけど……」

 原が住まう鎌倉の家にマスコミが訪れるようになったのは、引退から10年ほど経った1970年代のこと。

 小津安二郎の通夜以来、公の場に出なくなった原に、マスコミは取材依頼を繰り返した。しかし、彼女のガードが緩むことはない。

〈これが49歳原節子の隠された私生活!〉

 そんな原の近影を初めて収めたのは、70年6月の「週刊平凡」である。本人インタビューが難しいと悟ったマスコミは以来、折にふれて原の姿を撮影。「あの人は今」の常連ともなり、写真は撮らずとも、近隣の聞き込みから今の生活を描く記事も見られた。

 これには原も神経質になっていたようで、近所の住民によれば、

「近くにある薬局の店員が、雑誌に原さんの近況をしゃべった。すると原さんはその店に行くのを止め、前を通る時もサングラスをし、手で顔を隠して通るようになったんです。バスに乗る時も、わざわざひとつ先のバス停で乗る。そこまで警戒は徹底していました」

“お引き取りください”

 そんな中、月刊誌の企画で原宅を訪れたのが、先の斎藤氏であった。

 ご本人が振り返る。

「初めて伺ったのは、88年の初夏。この時は接触できず、繰り返し訪れるうち、秋になって初めて庭の手入れをしていた原さんを目撃したんです。が、動転してしまったのでしょうか、私は無施錠の木戸を開けて庭に入り、“會田さん!”と大声で呼びかけながら、無意識のうちに持参した小型カメラのシャッターを切ってしまいました」

 これでは不審者と思われても仕方ないが、原は近づく斎藤氏を「ダメですよ。どちらの雑誌社ですか?」「私はどなたにもお話しする気持ちはありません」とたしなめ、すっと手を差し出してフィルムを返すように促したのだという。

「私は魔法にかかったように“すみません”と謝ってフィルムを渡しました。すると原さんは“ありがとう。どうかお引き取りください”と言って家の中に入っていった。メークはしてなかったと思いますが、やはり大変な美人でした」

 この経験が忘れられなかった斎藤氏は、その後も鎌倉訪問を繰り返す。1年後、再び原を目撃した際のやり取りが冒頭のものだった。

 斎藤氏が振り返る。

「思いもよりませんでしたが、“はい!”と言うと、原さんは私を縁側に座らせ、10分ほど後、カレーとコップを持ってきた。ジャガイモやニンジンのたくさん入った手作りのものでしたが、私には少し辛く感じました。食べている間、原さんは籐椅子に腰かけて庭をじっと眺めている。私は食べ終わってから質問をしようとあれこれ考えていましたが、それを察したのか、食事が終わると、“この前のお礼ですの。お味はいかがですか?”“これでお引き取りください”と部屋に入っていってしまったのです」

 こうして突然の面談は20分ほどで終わる。興奮覚めやらぬ斎藤氏はその後も原邸に通い、他のマスコミも接触を試み続けたが、その後25年間、このようなハプニングはないままだった。

「中辛カレーの味は、今でも口の中に残っています」(斎藤氏)

 あれだけマスコミ嫌いだった原をして、何がカレーをふるまう気にまでさせたのか、その答えはわからぬまま、原の肉声を聞くことはついにかなわなくなった。

 改めて顧みても、先の20分間は、偶然が重なり合った、まるで奇跡のような時間であったと思えるのである。

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