「罪もない中国の人民にたいして……」100歳を迎えられた三笠宮殿下の“斬新なお言葉”集

社会週刊新潮 2015年12月3日号掲載

 明治以降の皇族方では最長老の「大(おお)殿下」こと三笠宮崇仁親王殿下が、12月2日に100歳を迎えられた。戦後、軍人から学者へと転じた昭和天皇の末弟は、まさに激動の一世紀と向き合われてきたのだが、そこで思い出されるのは、皇族らしからぬ「斬新なお言葉」の数々……。

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三笠宮崇仁親王殿下が、12月2日に100歳を迎えられた

 数年前から心臓の弁に異常がみられた三笠宮さまは、2012年6月、長男の寛仁親王の葬儀に参列された翌日に体調を崩して入院。「鬱血性心不全」と診断され、手術を受けられたものの、現在は92歳になる百合子妃ともども、元気なお姿を見せられている。

 11年10月にご結婚70年を迎えた際には、次のような「ご感想」を寄せられていた。

〈結婚のとき、私は陸軍大学校の学生だった(中略)間もなく戦争となり、厳しい生活が始まった。陸大の研究部部員を務めた後、私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した〉

〈帰国後、大本営の参謀などを務めているうちに、敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく、空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった〉

 今回、100歳を迎えるにあたり、宮内記者会はあらためてご感想を伺うべく質問を準備したという。

「当初はお答え頂けるというご意向で、我々もご年齢の感想とともに、先の大戦についての思いをお尋ねする項目も盛り込んだのですが、内容に目を通された後、『これまで書いたり話したりしてきたことをなぞるだけになってしまう』といった理由で、職員を通じてご回答をお断りしてこられたのです」(宮内庁担当記者)

 では、その“書いたり話したり”の中身とは、一体いかなるものであったのか。

■“「聖戦」というものの実体”

 三笠宮さまは1943年1月から1年間、お印にちなんだコードネーム“若杉参謀”として南京に赴任され、戦後は東大でオリエント史を学ばれた。56年には『帝王と墓と民衆』(光文社)を上梓。ご自身の戦時中の感慨について、同書に付された『わが思い出の記』の中で、

〈わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉

〈この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたくしが南京に在住していた一年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした〉

 と、現地で見聞した日本軍の行状をひたすら嘆かれ、

〈新政策が発表されるや、軍司令官はただちに「四悪」を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。(中略)ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺を前進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった〉

〈聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉

 当時から、聖戦への信念を完全に失っていたと明かされているのだ。

「特集 『三笠宮殿下』百寿祝いで思い出す『紀元節反対』と『南京虐殺言及』」