二度目の東京五輪は喜劇として――小田嶋隆

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■日本人が過去を美化する時

 日本人が過去を美化する時、われわれは、いつも同じ間違いを犯す。わたしたちは、軍隊を美化し、特攻隊を美化し、白虎隊と忠臣蔵と楠木正成を美化する。そして、二・二六事件を美化し、爆弾三勇士を美化し、なんであれ盲目的に目標に向かって突っ走った若者たちの純粋さと、その彼らの死と破滅と悲しみと切なさを美化することになっている。必ずそういう手順で話が進むのだ。だからこそ、私は、そのバカげた手順と結末に懸念を抱かずにはおれないのである。

 日本を取り戻そうとしている人たちは、必ずや、五輪を通じて、日本人が一丸となって生きていた遠い伝説の時代を取り戻そうとする。そして、その運動は、ほぼ間違いなく、同じ失敗に帰結する。

 誰もがそれぞれのスマホ画面を見つめて黙り込んでいるように見える21世紀の日本人の閉じこもった精神のあり方を、あるタイプの日本人が憎んでいるところまでは理解できる。実際、バブル崩壊からこっち、われわれの気持ちは、変なふうに縮こまっているのかもしれない。

 とはいえ、五輪がその平成の日本人の心をひとつにするのかというと、そんなに都合よく話が進むとは思えない。

 五輪は、日本人を熱狂させるかもしれない。が、われわれが熱狂することは、必ずしも望ましい未来にはつながらない。というのも、熱狂している時の日本人は、熱狂していない時の日本人に比べて、どちらかといえば下品だからだ。 

 1964年の東京五輪が輝かしい記憶としてわれわれの胸の中に残っていること自体、それが本当に素晴らしく、美しい大会だったからというよりは、われわれ自身が、自分たちの幼年期や青春を美しい思い出として永久保存したいと願っているからなのであって、本当の話をすれば、前の東京五輪が開催され、その大会に全国民が熱狂していた時代、わたくしども日本人は、今現在より、ずっと野蛮で、下品で、貧乏で、無神経だった。少なくとも私はそう思っている。

 東京五輪における最大のヒーローを挙げろと言われたら、即座にいくつかの名前が浮かぶはずだが、後の時代への影響力や、幅広い層への国民的人気という点から考えれば、最もふさわしい人物は、おそらく、全日本女子バレーボールチームを金メダル獲得に導いた、大松博文監督ということになるはずだ。

 当時大松監督がチームのメンバーに言ったとされる「俺についてこい」というセリフは、国民的な流行語になった。

 言葉だけではない。「鬼の大松」と呼ばれた大松氏の指導方針や、人間観や、物腰やしゃべり方のすべてが、国民的な歓呼を持って迎えられたと言って良い。

 あの、「大松ブーム」の広範さと影響力の大きさは、いまの人には、わかってもらいにくい部分を含んでいる。

 というのも、あれは、単純な流行というよりは、日本陸軍的な何かへの郷愁と揺り戻しを含んだ、明らかに反動的な国民運動に似たものだったからだ。

 私は、その国民運動の被害者だった。そのように申し上げて差し支えないと思う。大松ブームの具体的な内容は、大松氏が、全日本女子バレーチームならびに、その代表にほとんどの主力選手を供給していたニチボー貝塚という企業のバレーボール部の監督として実践していた「シゴキ」という指導法のブームでもあった。

「シゴキ」は、子供たちの間でも大流行した。イジメの火付け役にもなった。

 われわれは、足の遅い同級生をシゴき、登下校中の下級生をシゴき、野良犬をシゴき、バッタとカマキリをひとつの虫カゴに閉じ込めてシゴいた。

 が、そこはそれだ。子供たちのイジメのネタになったからといって、ただちにそれがけしからぬ流行だということにはならない。どんな時代であれ、子供は、あらゆることをイジメに応用する。彼らが何かを使って別の子供をいじめるのは、単に、それが面白いからに過ぎない。つまり、ガキにとって、権力的で暴力的で物騒であぶなっかしいものは、なんであれ魅力的だというだけのことだ。

 話を戻す。「シゴキ」は、当然、教育現場にも盛大な形で導入された。頑固者で知られる年配の教師や体育担当の顧問教師は、自分が大松信者であることを明らかにしつつ、様々な「シゴキ」を子供たちに向けて発動していた。

 われわれは、それの実験台になった。

 60年代当時、担任の教諭が子供たちを竹の棒で打擲するようなことは、珍しいことではなかった。が、その暴力教師たちの体罰にお墨付きを与えていたのは、実は、大松日本の金メダルだったわけで、そういうふうに、当時のわが国では、結果として金メダルをもたらし得るのであれば、どんなに理不尽に見える教育方針であれ、歓迎されたものなのである。

「シゴキ」は、言葉のうえでも「シゴく」「シゴきまくる」「シゴき抜く」「シゴキ番長」「シゴキ練習」というふうに様々な形で活用され、現場に適用された。それゆえ、小学校低学年のチビに過ぎなかった私は、教師にシゴかれ、兄にシゴかれ、兄の友人たちにシゴかれ、なんだかんだで、一日中シゴかれていた。

 ここで大切なのは、「シゴキ」という言葉のブームの中で、幼児虐待や、体罰や、労働強化や、サービス残業といった、様々な暴力と人権抑圧が許容され、推奨され、推進され、美化されていたことだ。

 わが国の集団や組織に根付いてしまっているこの体質は、帝国陸軍以来ほとんど変わっていない。

 それもそのはず、大松博文氏は、当時自らが著書やインタビューの中で明らかにしていた通り、帝国陸軍の生き残りであり、なおかつあの苛酷なインパール作戦から生還した奇跡の兵士だった。

 だからこそ彼は、「極限状態の中でこそ、人間は真の力を発揮できるようになる」 ということをあらゆる機会を通じて強調してやまない人物であったわけで、つまり、なんというのか、大松氏は、五輪という祭の中で召喚された、帝国陸軍の亡霊みたいな人物だったのである。

 結局のところ、終戦からまだ20年を経ていなかった1964年という時代において、人々は、充分になまなましい「戦争」の記憶とともに暮らしていたわけだ。

 無論、過ぎた時代の人物の言動や考え方を、現在の基準で裁くのは、公平な態度とはいえない。歴史上の出来事を、現在の見方で評価することについても同様だ。歴史上の出来事は、あくまでも、当時の時代背景を加味した上で、その意義を解釈せねばならない。

 たとえばの話、江戸時代のお歯黒が女性虐待だとか、仇討ちが殺人賛美だと言ってみたところで仕方がない。そんなことを手柄顔で指摘したところで、歴史が書き換わるわけではないし、教科書の中の人間が反省するわけでもない。

 とはいえ、大松氏の言動や指導法は、64年当時のスタンダードで評価してもなお十分に戦前的であり、軍隊的であり、封建的であった。

 もっとも、大松氏の提示した「シゴキ」と「根性」と「全員一丸」と「連帯責任」と「命令一下」の精神は、それが軍隊臭横溢の反動形成だったからこそ、戦後民主主義と一緒にやってきた「民主的」で「ものわかりの良い」「公明」で「寛大」で「アメリカ的」な戦後教育の拡大と普及に反発を抱いていた人々の心をとらえたという面はある。

 いずれにせよ、帝国陸軍由来の軍事教練を彷彿とさせる苛烈な指導と鞭撻の様相が、当時の一般大衆に大歓迎されたことは、動かしがたい事実だ。

 古い時代の人間が、古い考えで行動し、古い道徳を信奉していたことそのものは、われわれがどうこう言うべきではない。言ってどうなるものでもないし、いまさら変えられるわけでもない。

 ただ、過ぎた時代の美意識やノスタルジーをそのまま現代に再現しようとする人間がいるのだとしたら、それは、なんとしても阻止しなければならない。

 なぜなら、過去の亡霊を召喚することで現在の閉塞状況を打開しようというのは、現代の規範意識で歴史時代の出来事を裁くこと以上に不毛であり、有害だからだ。

 2020年を期して東京に五輪を招致しようとしていた人たちが、64年の東京五輪の時代に思いを馳せているに違いないことは、当時から、明らかだった。

 そもそも五輪招致の運動に、彼らの「昭和回帰」への熱い思いが、赤裸々な形で露呈してしまっていた。

《今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。/オリンピック・パラリンピックは夢をくれる。/夢は力をくれる。力は未来をつくる。/私たちには今、この力が必要だ。/ひとつになるために。強くなるために。/ニッポンの強さを世界に伝えよう。/それが世界の勇気になるはずだから。/さあ、2020年オリンピック・パラリンピックを日本で!》

 以上は、2013年当時、招致委員会のホームページに記載されていたポエムだが、これを見ても明らかな通り、彼らが目指している当のものは、「五輪」そのものでもなければ、「スポーツ」の普及でもない。

 ひとえに「ニッポン」の「団結」と「力」と「夢」。彼らは、五輪をひとつのテコとして、21世紀の日本人をもう一度あの1964年の東京五輪時点の、勤勉で、献身的で、自己犠牲的で、集団主義的で、従順で、我慢強い、高度成長仕様の日本人に似た人間たちに作り変えることを夢見ている。薄気味の悪い目論見ではないか。

 その兆候は、既にあらわれている。

 つまり、われわれが「ひとつ」になる傾向は、五輪の本大会を待つまでもなく、その準備段階の「国家的」ないくつかの仕事を見つめる視線の中に、はやばやと露呈しはじめている。

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