デイリー新潮

芸能

つんく♂が語った妻への思い 出会いから結婚、がん発見から手術後までを明かす

2015年度近畿大学入学式でのつんく♂さん。(つんく♂著『「だから、生きる。」』より)

 近畿大学の入学式で、喉頭がん治療のため、声帯を切除し声を失ったことを発表した歌手・音楽プロデューサーのつんく♂さん。9月10日に闘病の記録と、これまで歩んできた道を振り返った手記『「だから、生きる。」』(新潮社刊)を上梓した。刊行に先立ち、記者の質問にMacのLINEに答えを打ちこむという形でインタビューを実施。衝撃的な発表の陰には、結婚当初から支えてくれた妻の献身的な努力があったと、つんく♂さんが明かした。

 ***

――昨年10月に喉頭がんの切除手術を受けたつんく♂さん。ファンも国民もつんく♂さんが現在どのような状況なのか気になっていると思います。手術によりどう変わったのか、今のつんく♂さんの状態を教えてください。

つんく♂ 2014年2月に喉頭がんと診断されました。3月から放射線治療をはじめて、9月には治療の結果、一度は寛解と発表をしたのです。しかし、放射線で叩ききれなかったがんが大きくなっており、窒息の危険もあることなどから、気管切開の緊急手術に至り、その後がん摘出のために喉頭部分を全摘する手術を受けることになりました。喉頭全摘とは声を出すことができなくなるだけではなく、気管と食道を分ける弁もなくなってしまう。そのため空気の通り道となる気管孔という穴を喉に開け、今はその穴を通して呼吸をしています。前のような声はもう出せませんが、練習次第では、食道発声という方法で会話をすることもできるようになるので、今はその訓練をしています。

――大変なご苦労だとお察しします。はじめてがんと診断され、告知されたときはどのような状況でしたか?

つんく♂ 病室で妻と二人で先生から検査の結果を聞かされました。僕は何かを質問できるほど心と頭の余裕がなくなっており、一方的に「報告」を聞いているような感じで。先生の説明は、まるで頭に入って来ませんでした。妻も愕然とし、手が震えていました。先生は「標準治療」すれば広がらず治るがんだからと言ってくれ、自分もよくわからず先生任せにしようと考えていたんですが、そこで妻にスイッチが入った。病気を受け止めきれなかった僕にかわって、妻は猛然とがんについて勉強を始めたんです。
 妻は寝る間も惜しんで本やインターネットで治療法や病院について調べ、入院中の僕のもとに毎日たくさんの資料を抱えてやってきてくれました。国内の治療法から海外のものまで、とにかくたくさん調べ上げ、専門医の紹介を得るために、知り合いやそのまた知り合いにまで電話をするなど、ものすごいパワーとスピードでした。それまでは、行きたいレストランに電話するのも躊躇するほど恥ずかしがり屋だったのに。納得できる治療方針を選べたのは、彼女のおかげだと思っています。

――つんく♂さんといえば亭主関白で奥様は一歩下がって、という考えで、大事な決断はつんく♂さんがされているのかと思っていました。

つんく♂ 結婚当初はそう考えていましたね。「女は家を守るべき」や「仕事場であるライブ会場に彼女や奥さんは呼ばない」と公言して、亭主関白を気取ってました。新婚当時、それまで付き合っていることを隠していたので、普通のデートの仕方もわからず、ずっとほったらかしていたこともありました。結婚したからといって、いきなり「妻第一」となるのはバンドマンとしてもかっこ悪く、ロックじゃないと思っていたんです。今考えれば、そんな自分を、本当に小さかったと思います。でも最初の子供が双子で、二人同時に世話をしなければならなくなり、自分も子育てを手伝うようになってきてから、かなり考え方も変わってきました。出来るだけ一緒にいる時間を増やすために生活も朝型に変え、コンサートに妻も子も連れてゆき、歌う姿を見てもらいたくなってきた。「ジョンとヨーコ」みたいにプライベートも含め「全部ありきで俺」なんだと思うようになりました。

「2012年に家族五人揃ってハワイで結婚式を挙げ直した。」(つんく♂著『「だから、生きる。」』より)

――つんく♂さんを変えたのは奥様だったんですね。そもそも奥様との出会いから結婚まで、あまり公表されていないようですが、お聞かせいただいてもよろしいですか?

つんく♂ 博多のローカル番組でタレントをしていた彼女を僕が偶然見つけ、この子と見合いがしたいと友人に頼み込んだんです。メールのやりとりのあと初めての電話で「私、もう年齢的にもモーニング娘。にはちょっと無理があると思うんですよ~」とボケられ、妙な新鮮味を感じ、さらに興味をもちました。二度目の電話でもう「俺たち結婚するんやろ」と口走るほど、吸引力がありました。東京と福岡と距離があったので、その後数回デートした段階で彼女に上京してきてもらい、東京で交際するようになった。でも上京してもらったにもかかわらず「彼女第一」という感じではなかったし、僕もかなり忙しく、全く会えない日が続いたことも。その当時彼女は実家の母親に何度も「寂しい」と泣いて電話をしていたと、後で聞いたときには申し訳なかったです。

――その後結婚をし、お子さんが生まれてつんく♂さんの意識もプライベートも含めて俺なんだと変わっていったんですね。声帯摘出を発表した近大入学式の日も奥さんやお子さんが舞台裏に来ていたと聞きました。

つんく♂ 本番直前まで舞台袖で家族と一緒にいました。そんなことは人生始まって以来初めてのこと。僕が入学式に元気な姿で登壇できるように、妻は、本当に一生懸命、僕を支え、励ましてくれました。もっと食べなきゃだめ!と真剣に叱られたことも。というのは術後、食べることに時間がかかるようになり、食べること自体を面倒がっていた時期があったからです。それでも僕のために、お手製のにんじんジュースや鶏を甘辛く煮込んだもの、ニンニクやショウガたっぷりの薬膳スープなどを作ってくれました。僕の体重が増えるように、元気になるように、少しでも食欲が湧くようにと見栄えの良い料理を作って僕の体調管理をしてくれた妻や、いつも励ましてくれた子供に、元気になった姿で復帰を宣言する姿を間近で見てもらいたかった。

――声が出せなくなるとわかっていた手術の日もご家族で過ごされたと聞きました。

つんく♂ 気管切開の手術をしたらもう話すことはできないとわかっていたので、最後にどうしても子供たちと妻に、自分の声で話がしたかった。息を吸って吐くだけでも苦しいなかで、聞こえるか聞こえないかくらいのかすれ声でしたが、家族一人一人に話をしました。3人の子供たちには「お母さんのいうことを聞きなさい」「大好きだよ」など、どんな親でも言うようなことですが、伝えておきたいと思うことを話しました。そのあと妻にもいくつかのメッセージを伝え、最後にいろんな口調で妻の名前を何度も呼びました。これからも何万回も呼べるものだと思っていた妻の名前ですが……。妻は泣きながら聞いていました。
 こんなにも僕を愛して、支えてくれる家族のためにも、絶対に後ろは振り向かない、と心に誓った瞬間でした。

 ***

 つんく♂さんの言葉には「生きる」事への情熱が詰まっており、LINEを使ってインタビューに答える一言一言が感動的だった。今回のインタビューでは、微笑ましいエピソードに皆で笑いあうこともあったが、一同涙が溢れそうになることもあった。

 つんく♂さんは声が使えない事を除けば大病をしたと思えないほどのバイタリティで、立ち会った我々が逆に元気をもらった結果となった。9月10日に発売された『「だから、生きる。」』にもつんく♂さんの「生きる力」は漲っており、その言葉に触れた我々も熱く生きる力が湧いてきた。

デイリー新潮編集部

この記事の関連記事