山本夏彦『夏彦の写真コラム』傑作選 「国語の時間は減るばかり」(1994年4月)

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 すでに鬼籍に入ってしまったが、達人の「精神」は今も週刊新潮の中に脈々と息づいている。山本夏彦氏の『夏彦の写真コラム』。幾星霜を経てなお色あせない厳選「傑作コラム集」。

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 ♪ぶらりとしてはいれどもひょうたんは、ひょうげて丸く世間をわたる、身は店借(たながり)の気散(きさん)じは月雪花の酒(ささ)気げん(略)という唄がある。昭和二十三年一代のコラムニスト高田保(たもつ)の「ブラリひょうたん」は、題をこの唄に借りたと私は書いて、いや待てとためしにわが女子社員に音読させたところ、月雪花(つきゆきはな)を「げっせっか」と読んだ。エッと言うより私はアハハと笑って、松竹梅のときは音(おん)で読むが、これは訓(くん)で読むと言うにとどめた。私はもうこんなことには驚かない。彼女は一流大学卒の才媛である。才媛にしてそうならあとは聞くまでもないと聞かなかった。

 店借、気散じが死語に近いことは承知しているが、月雪花までそうだとは知らなかった。これは今の新卒の母親が四十代で貧乏をしてないひもじい思いをしてない、したがって娘とボキャブラリーを等しくしていること同じだということを示している。母親までげっせっかになったのである。うら店なら知っているだろうから表店(おもてだな)、店賃(たなちん)は分るはずだと言ってももう耳をかさない。古いことは悪いこと新しいことはいいことと親子ともども小学校から教わっている。

 古い言葉と新しい言葉があったら古いほうをとれ、歴史のある言葉は使い方ひとつで天地(あめつち)を動かす。私が言葉を大切にと言うのは、震災と戦災で日本中まる焼けになったからで、衣食住が焼けうせたら残るのは言葉だけである。言葉をたよりに過去にさかのぼるよりほかない。いま歴史ある言葉を一つ失うのは歴史を一つ失うことになるのである。

 古いことは悪いこと知らなくていいことと教えたのは学校では教員であり、家庭では父兄である。三月二十四日号で私は文部省は家永(三郎)説を一蹴すればよかったと書いたが、これもまた一蹴すればよかったのである。

 教育は過去の財産を今に伝えるものだから、本来保守的なものである。昭和二十三年「ブラリひょうたん」は分ったのである。今は分らないのである。

 小学四年生の国語の時間は大正七年十四時間、大正八年から昭和十五年までは十二時間あった。今は六時間だそうである。

「鬼籍に入った達人『山口瞳』『山本夏彦』 三千世界を袈裟切りにした『傑作コラム集』」より

週刊新潮 2015年8月6日通巻3000号記念特大号掲載

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