山口瞳『男性自身』傑作選 「執行猶予」(1995年6月)

社会週刊新潮 2015年8月6日通巻3000号記念特大号掲載

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 すでに鬼籍に入ってしまったが、達人の「精神」は今も週刊新潮の中に脈々と息づいている。山口瞳氏の『男性自身』。幾星霜を経てなお色あせない厳選「傑作コラム集」。

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 癌を宣告されたら誰だって死について考えるだろう。私もそうだ。

 手術の麻酔が覚(さ)めたとき、部屋を出て行く担当教授の背中に向って「先生、本当のことを言ってくださいよ」と叫んでしまったことを記憶している。これだってずいぶん失礼な話じゃないか。医師(せんせい)は背中でもって返辞をしてくれた。

 そのくせ、悪性のものだと言われたとき、頬が引き攣(つ)るような、体全体が硬直するような、背筋が寒くなるような感じになったのだから、だらしがない。

「特に注意すべきことがあるでしょうか。風邪をひかないとか……」

「ああ、風邪をひかないように」

「風邪をひかないようにするにはどうすればいいですか」

「人込(ご)みに出ないとか」

 競馬場は人込みじゃないな、空気のいい所だからなと考えていた。

「それから歩くことです。歩くのが一番です」

 競馬場ではよく歩くからな。

「なんでも食べてください。よく食べて体力をつける。旅なんかどんどん行ってください。温泉もいいですよ」

 内科の医者は何でも食べろとは言わない。カロリーの高いものを食べるなと言う。私は手術を受けたので現在は呼吸器外科に所属している。何でも食べていい、どこへでも旅をしろ。待てよ、これはひょっとすると末期癌なんじゃないか。いやいや、そんなことはあるまい。医師はそんな顔をしていない。

 私は平均寿命ぐらいは生きたいなと思っていた。私は六十八歳で、十一月になると六十九歳になる。平均寿命は男七十六歳、女八十二歳だが、それくらいまでは生きられると思っていた。父は七十歳で死亡したが、若いときからの重症の糖尿病であったので、父よりは長く生きられるはずだとも思っていた。

 私は新聞の死亡記事を読むようにしている。二十年ぐらい前までは死亡年齢七十歳とあると、これはメデタイほうの亡くなり方だなと思ってあとは読まなかった。もし四十代五十代であったりすると、気の毒にまあ、いやいやいや辛いなあと思ったものである。それが五年ぐらい前から、七十歳はまだ若いと思うようになってきた。七十歳の死は辛い。

 今年の五月二十八日は私ども夫婦の四十六回目の結婚記念日だった。あと四年で金婚式である。貧しい結婚式であったので金婚式は柳橋の亀清楼で志ん朝さんに来てもらってなんて甘いことを考えていた。白状すると、吉行淳之介さんのように二十一世紀もちょいと覗いてみたいとか、このぶんなら八十歳まで生きられるかもしれないと考えたこともあった。しかし、大正十五年生まれの六十八歳という年齢は、いつ何があっても少しも不思議ではないことに気づかされた。何だか、人間の一生ってこういうものだったのかと教えられたような気もしている。

 吉行淳之介さんは遺書をお書きになっていて、時々書き直されるという話を聞かされたことがある。結城昌治さんは、確か毎年一月一日に遺書を書くと言っていた。それに倣(なら)って私も遺書を書いておこうと思ったこともあったが、どうもその方面の才能もないようで書くべき事柄が頭に浮かんでこない。妻一人息子一人で財産と言えるようなものもないとなると書くことがない。そこで思いついたことを遺言(ゆいごん)として書き記しておく。遺言はイゴンと訓(よ)むのが正しいと弁護士の増岡章三に教えられた。

 一、葬式は、父がそうであったように、母がそうであったように自宅で営んでもらいたい。菩提寺(ぼだいじ)の浦賀の顕正寺の住職に来てもらって(お父さんのほうは無理かな)簡素なものにしてください。青山葬儀所とか千日谷会堂は絶対にイヤです。書斎の机のあたりを祭壇とし玄関から土足であがって庭へ抜けるようにする。近所の人に迷惑をかける(特に交通関係)というので、寺や公会堂を使うことが多いようだが、タッタ二時間か三時間のことじゃないですか。何事も普通に穏やかにやってもらいたい。

 一、そのかわり、通夜は、これも自宅で、昔の新年会のようにドンチャン騒ぎをやってもらいたい。食べもの飲みものは、繁寿司のタカーキーと下北沢小笹寿司の岡田周三さんに相談してください。

 一、書斎の机に恰(あたか)も今までそこで執筆していたといった感じの原稿用紙をひろげて万年筆を置き老眼鏡を置き湯呑茶碗を置くといったような類のことは決してやらないでもらいたい。私のもので気にいらないものは捨ててください。さいわい、息子も同業であるので、私の机を使ってくれ。ずいぶんと仕事がしやすいようになっていると思うよ。

 六月十一日に府中の東京競馬が終った。あとは十月の初めまで開催されない。最終日になると最年長の小室恒吉先生に、

「ロング・グッドバイですね」

 と、毎年のように御挨拶するのだが、小室先生は、昔風に六月一杯は夏服をお召しにならないので汗ビッショリになりながら、笑って、

「永遠(なが)のお別れにならなきゃいいんだが」

 と言われる。振り返り振り返りしながら去ってゆく後姿がまだ私の目に残っている。馬主協会の会長で大変な功労のあった中村勝五郎先生が亡くなり、荻窪病院の院長で手術の名人であった吉川忠直さんが亡くなり、大好きな小室恒吉先生も亡くなった。競馬会から頂戴している部屋では最年少であった私が今では遂に最年長になってしまった。

 六月十三日に退院してから初めて慶応病院に診察を受けに行った。レントゲン撮影を見ると胸に異常(変化)はないそうだ。内科のほうにも問題はない。

 鉢巻岡田で食事をしてクールへ廻る。私が飲んだのはホットオレンジジュースである。

 万事につけて執行猶予という心持でもって暮している。執行猶予のことを爆弾を抱えていると言うが、言い得て妙だ。私の実刑はいつになるのだろうか。

 私は自分でも俺は圭角のある男だと思っている。好き嫌いが激しい。よく言えば直情径行、すなわちオッチョコチョイで、いつまでも大人になれない。母には「お前は考えなしだから」と言われ、文藝春秋の社長だった池島信平さんには「ヒトミちゃんは単細胞だ」と言われた。親友だった梶山季之が人に私を紹介するときは必ず「コイツは口が悪いから」と言ったものだ。

 人間ドックでアブノーマル・シャドウを発見され、病院の検査手術でそれが悪性のものだと言われてからは、自分で言うのもおかしいが私は人間が少し優しくなったような気がしている。憎んでいた人でさえも少しでも長生きしてくれと願うような心持になっている。

「鬼籍に入った達人『山口瞳』『山本夏彦』 三千世界を袈裟切りにした『傑作コラム集』」より