四方八方から殴られ、氷の川に飛び込み、飲まず食わずで6キロ減量! スタントマンがいなかった『人間の條件』過酷な撮影――仲代達矢(俳優)

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 来年、生誕100年を迎える小林正樹監督が、満州戦線を描いた大作で、上映時間9時間半におよぶ『人間の條件』。戦後70年を迎える8月に一挙上映されるのを機に、主演した仲代達矢が、今日ではありえない命を賭した過酷な撮影現場の秘話を、赤裸々に語った。

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 制作発表からしばらくの間、主人公の梶役は決まりませんでした。『人間の條件』は、敗戦間際の満州が舞台の映画ですが、中国との国交回復前で、現地では撮影できなかった。そこで小林正樹監督は東北地方や北海道をロケハンしていて、訪れた温泉で、何気なく私のことを思いついたのだそうです。

 ラストシーンは、捕虜収容所から脱走した梶が、ボロボロになって彷徨(さまよ)った末に、「美千子ーっ!!」と叫びながら、力尽きて倒れるというものですが、「最期の梶の目は、前作でヤクザ役をやった仲代達矢の目じゃなかろうか」――。そういう監督の思いつきで、私に決まりました。

 当時、俳優はみな、梶役をやりたいと名乗りを上げ、各新聞もいろんなスターの名を挙げて予想をしていましたが、そこに私の名はありませんでした。それだけにメディアも、そして私自身も驚かされたのです。

――『人間の條件』は文字通り、大作中の大作だった。原作は1955年に発表され、ベストセラーとなった五味川純平の同名の半自伝的小説。それを小林正樹監督が映画化するに当たり、当初から6部作、9時間半の大作になると喧伝されたから、梶を誰が演じるのか大いに話題になったのだ。ちなみに、上映時間の長さは当時のギネス記録になったほか、ヴェネツィア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞(銀賞)と映画批評家賞を受賞した。

 私は俳優座に入ってちょうど3年、24歳でした。どちらかというと芝居の人間で、映画は少し出てきた程度。小林作品では前作『黒い河』で演じた「人斬りジョー」というヤクザ役が多少評判になったので、なにかの役でオファーは来るかと思ったものの、梶役はとてもやれるもんじゃないと考えていました。

――実際、この映画は戦争という極限の状況下における人間性を、梶を通して描いていた。中国人が働く鉱山や、過酷な軍隊生活を強いられた関東軍、ソ連軍による捕虜収容所などで戦争の不条理に直面し、抵抗する梶は、妻の美千子のもとに戻るために生き残ろうとするが、叶わない。こうして『人間の條件』は仲代の出世作になったが、過酷だったのは、梶の運命だけではなかったようだ。

 原作者の五味川先生と同様、小林監督も軍隊経験者で、松竹の助監督になって間もなく満州に出征し、宮古島で終戦を迎え、沖縄で米軍の捕虜収容所に入っていた。その体験から、徹底したリアリズムで映画を撮ったのです。

 私は東京で爆撃に遭い、命からがら逃げて中学1年で終戦を迎えました。ですから、軍隊には行っていない。そのため、配役が決まると、私を含めて50人くらいの役者が松竹の大船撮影所に集められ、1カ月ほど合宿して、初年兵教育の訓練を受けました。

 毎朝、起床ラッパが鳴ると、バァーッと飛び起きて軍服に着替え、ゲートルを巻き、鉄砲を持ち、鉄兜をかぶってから、気をつけの整列をするのですが、そこまで3分間しか許されないのです。また、軍隊経験があるスタッフから、“本物の”訓練を受けました。初年兵教育とは、二年兵、三年兵が初年兵を徹底的に訓練するもので、まあ、イジメですよ。自分たちがやられた分、後輩たちも同じようにイジメる。今の若い人には想像もつかないような過酷な訓練を受け、1カ月経つころには、私たちも優秀な分隊のようになっていました。

 ところが、実際に撮影が始まると、さらに大変でした。初年兵教育で殴られるシーンなどは拳で本気で殴られる。私が10人の古参兵に殴られるシーンは、アングルでごまかさずにワンカットで撮ったため、四方八方からぶつ続けで殴られ、顔が腫れあがりました。それをそのまま撮るのだから、リアリズムの極致です。

■戦車のキャタピラーの下に

 雲ひとつにまで徹底的にこだわっていました。ほとんど北海道の原野で撮影しましたが、捕虜を乗せた列車が到着するシーンで、せっかくの晴天なのにカメラを回さないんです。小林監督も宮島義勇カメラマンも、本当の満州の雲を知っていて、「雲が違う」「もっとこんもりした雲だ」と。そうして10日ほどして、やっと「似たのが出た」と言ってカメラを回す。そんなことばかりしていたから、全6部を撮り終えるまで、準備を含めて足かけ4年もかかってしまったのです。今の映画では考えられない撮り方でしょうね。

 ソ満国境のタコツボ陣地にソ連の戦車隊が押し寄せてくるシーンも、すべて本物で、戦車も自衛隊の実車を使いました。

 戦車のキャタピラーが迫る寸前、梶が部下を救い出し、2人でタコツボに飛び込む場面で、タコツボの中のカメラだけは鉄板でしっかり守っているのに、私たちが飛び込むのはただの穴。しかも、タコツボの直径とキャタピラーの幅がほぼ同じだから、少しでもずれたら潰されてしまう。そこにギリギリまで戦車を待って飛び込めと言われるんです。本番の1週間くらい前から食欲がなくなりました。

 迫りくる戦車を見ると非常に怖いので、キャタピラーの一点だけを見つめていて、「もうギリギリだ」と思った瞬間、部下役の川津祐介くんをタコツボに迎え入れて、自分も沈み込みました。その瞬間、背中のすぐ上をキャタピラーが通っていくのがわかって、川津くんも生きた心地がしなかったでしょうね。

 収容所から脱走し、氷が張る川に飛び込むなんてこともやった。全部、役者が実際にやるんです。私はイタリア映画に出たことがありますが、あちらでは5メートルでも距離が離れたらスタントマンがやる。「僕がやります」と言うと、「それじゃあスタントマンが失業しちゃうからいい」と。ところが当時の日本の俳優は、自分で命がけの撮影をしないといけなかった。電車から飛び降りたり、飛び乗ったりするのも、落馬するのも、全部俳優がやりました。

 梶にもスタントマンはいなかった。役者は、こんな危険な撮影は嫌だと思いながら、それがカメラに映って素晴らしい画面になるのだと思うと、やってしまうものなんです。そういう意味でも、『人間の條件』ではずいぶん鍛えられました。

 4年間の撮影を通して病気やケガで倒れなかったのは、結局、私と監督の2人だけでした。私の24歳から28歳までの顔が映っているのですが、初めは青白いインテリみたいなんです。それが、大変な撮影を通して、梶が戦争に加わっていく中で、自然と顔が変わっていきました。

 結局、映画は第一部、第二部が大当たり。第三部、第四部でまた当たり、最後まで大当たりでした。最初は少なかったギャラが、少しずつ上がっていくという変化もありました(笑)。

■飲まず食わずで雪に埋もれ

――1955年に俳優座に入団して60年、82歳になったいまも役者として第一線に立ち続ける仲代達矢の、役者魂の原点も、『人間の條件』の撮影のなかにあったようだ。

 梶という大役を演じることには、プレッシャーを感じました。共演した三島雅夫さんも東野英治郎さんも、みなさん俳優座で演技指導をしてくれた大先輩で、私は1年生みたいなものでしたから。鉄のような精神をもった梶という役ではありましたが、現場では「よろしくお願いします」と、頭を下げてばかりでした。

 山村聡さんには演技指導のほか、いろんなことを教えていただきました。たとえば、私が“本読み”のときに、台詞の語尾をちょっと違えて読むと、「作家やシナリオライターは、語尾を“な”にするのか“の”にするのか、延々と考えているものなんだ。だから、台本通りに読むべきだ」とおっしゃった。だから私はいまも、台詞は絶対に台本通りに読みます。

 主人公の妻の美千子を演じた新珠三千代さんは、僕より2歳ほど年上ですが、上手だったですね。捕虜を逃がすために家を出て行こうとする梶を必死に止める場面など、見事でした。また、美千子が軍隊まで面会しに来て、梶と一晩を過ごすシーン。最後の別れだから窓辺で裸になってくれないかと頼む、あのシーンも非常に美しいものでした。

 そんな美千子に会うために、梶は最後まで生きようとして、彷徨の末に、ついに倒れます。そのラストシーンは、小説では「雪は無心に舞い続け、降り積り、やがて、人の寝た形の、低い小さな丘を作った」と書かれています。その場面を撮るために、監督から1週間で6キロ痩せろと言われました。

 でも、当時はダイエットの方法論もありません。どうしたかというと、1週間以上、酒以外はほとんど飲まず、食わず、寝ず。それで6キロ痩せて、本当にフラフラになったうえで、雪の中を彷徨った末に倒れるシーンを撮りました。

 サロベツ原野という何もないところで、雪が多い日を狙い、1ロール10分のフィルムをカメラ2台で回した。監督はきっと原作通りに、私の姿が雪の中に消えて小山になるまで延々と撮るつもりだろうと覚悟していました。雪原に倒れ込むと、だんだん雪が積もってくるのがわかる。まだかなあ、と思ううちに気持ちよくなり、眠くなってきました。あとで聞いた話では、凍死する際はまず眠くなるのだとか。眠くなり、続いて気が遠くなったとき、「カット!」。すると助監督が3人ほど駆け寄ってきて、私の衣装を脱がして素っ裸にしました。

 石油缶に薪を入れて焚いた“ガンガン”のところに連れて行かれるのかと思っていましたが、いきなり火に当てると凍傷になるので、まずは皮膚をたたき、刺激を与えて暖めるものなんだそうです。それで、助監督たちは私の素っ裸をたたき、その後、ガンガンが燃えている場所に入れられ、しばらくして服を着せてもらいました。

 ふと見ると、誰もいません。「もう帰ったのかな、冷たいな」と思うと、近くに停められた車に、監督と宮島カメラマンが乗っていて、一緒に宿に帰りました。2人とも黙ったままでしたが、待っていてくれたことを非常にありがたく思いました。こうして、最後のシーンを終えたのです。

■鍛えられた過酷な20代

――戦後70周年を迎える8月、この大作が久しぶりに、東京で一挙に上映されることになった。

『人間の條件』では、戦争反対を訴える梶が、戦争を批判する気持ちを抱いたまま戦争に参加し、加害者になっていくという、ひとつの典型が描かれています。当時の軍隊はどういうものだったか、戦争とはいかに悲惨なものであるか、戦争の中で人間はどう変わっていくのか――。それを実に克明に描いた作品です。しかも、単に戦争を批判するだけでなく、人間に対する梶の愛、ロマンが描かれている。そこに、戦争でひどい目に遭った人たちが共感したのだと思います。

 梶のように、戦争の理不尽さに対して行動で抵抗できた人間は、ほとんどいなかったと思いますが、その梶もまた、戦争の中で加害者になってしまう。そういうマイナスの意味での人間的部分もちゃんと描かれているから、この作品は素晴らしいのです。

――奇しくも来年は、小林監督の生誕100周年を迎える。数々の国際賞を受賞したこの監督が仲代達矢を起用した作品は実に11。仲代にとって父親のような存在でもあったという。

 私にとって、梶は小林正樹監督その人で、梶を監督にダブらせて演じました。役者はある意味“盗みの商売”で、誰かをイメージしなければならない。その点で、梶の強さ、粘り強さ、人間的魅力は、小林監督そのものだったんです。

 小林監督は大柄でタフで、麻雀からゴルフまでなんでも強く、一方で、哲学者的な風貌と精神も備えていました。現場でも、ほかの監督にくらべると非常に静かで、「はい、もう一度」と静かに指示を出し、それでいて、映画においては一切妥協しない厳しい人だったので、私は「鬼の小林」と呼ぶようになりました。

 しかし、小林さんも、黒澤明さんも、市川崑さんも、木下惠介さんも、当時は役者を徹底的に追い込んでいった。いまみたいに、この俳優を5日であげなければ、なんて妥協はなかった。1年かかっても、2年かかっても、役者を思い通りにするのが監督でした。

 8歳で父を亡くした私には、小林監督は父親的な存在で、暗黙の裡に信頼し合っていた。木下監督は私のことをさして「正樹はいいな、いい役者を捕まえて」と言ってくださったそうです。役者がタレント化する前の時代。監督にとって、いい役者を捕まえることは大事だったのでしょう。

 ところで、『人間の條件』の撮影には足かけ4年かかりましたが、第一部、第二部を撮り終えると、準備期間が半年空いたので、その間に、黒澤明監督の『用心棒』を撮りました。第三部と第四部のあとには、やはり黒澤監督の『椿三十郎』を、そして『人間の條件』が終わるとすぐ、29歳のときに小林監督と『切腹』を撮りました。

 いま思えば、徹底的に鍛えられた、すさまじい20代でしたが、とりわけ『人間の條件』という作品で小林監督とご一緒できたことは、本当に幸運でした。肉体的にはしんどい映画でしたが、私の役者人生のうえで記念碑的な作品です。

 六十数年、役者という商売に携わってきて、最近は演じるということは「人間暴露」だと思うようになってきました。役の中に仲代達矢が暴露されていく。昔は、誰よりも上手くやりたい、トップレベルのいい役者になりたい、お金がほしい、などと欲望が渦巻いていましたが、いまは上手くやりたいとも思わず、ただやる。それしかない。

 82歳になっても、役者には80過ぎの役がある。とはいえ身体を動かす商売ですから、いつかは引退しなければいけない。それが今年になるか、来年になるかはわかりませんが、やれるところまではやります。

週刊新潮 2015年8月6日通巻3000号記念特大号掲載

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