『苦海浄土』の書き手を育んだもの/『葭の渚』

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『苦海浄土』の、たゆたう水の流れに似た語りのリズムをさらにゆったりと、水俣や天草の言葉を美しく響かせてつづられる自伝である。幼年期のことはたびたび作品に描かれているが、読みながら何度も「ああ」とうなずくところがあった。ここで描かれる少女時代の体験があったからこそ、彼女は他に類のない『苦海浄土』を書けたと改めて思う。

 とりわけ大きいできごととして、実家の零落がある。石屋をいとなみ、道路や港湾の建設を請け負っていた祖父は、工事の完璧は期すが金勘定のできない人で、道子が小学二年生の時に破産する。〈さしょうさい(差し押さえ)〉に遭った一家は、賑やかな街中から水俣川河口の街はずれへと移り住むことになる。

 新しい住まいは伝染病患者の避病院と火葬場に近く、海や里山もすぐそばにあった。道子は近所の人に教わってさまざまな種類の貝を採るようになり、山に住むけものや山の神にまつわる話を聞く。

 道子のそばにはいつも祖母の〈おもかさま〉がいた。気がふれて盲目でもあるこの祖母の存在も大きい。ふらふらと家をさまよい出る祖母を探しに行き、蓬髪を梳いてやるのは道子の役目だった。

 負の体験を受け止めつつ、描かれている光景には光が射している。盲目の老女の手を引き水辺を歩く幼い子供の姿は明るい穏やかさで満たされている。説明する言葉を持たない祖母の中にある深い悲しみに感応するのもこの孫娘で、彼女の中にも生きることの悲しみがある。

 街中に暮らしていたころ、年若い娼妓が殺される事件があった。道子は犯人の弟と親しくなり、ゆき場のない一家の悲哀を受け止めている。代用教員だった戦後すぐのころ、汽車の中で出会った気のふれた戦災孤児の少女を背負って自宅に連れ帰ったこともある。

 早逝した伯父を除くと本を読む人のない家で育ち、短歌を通して表現の世界に入った。あふれる思いと表現の形式の間で苦しむが、水俣を書くのと前後して百歳以上の老人に聞き取りして『西南役伝説』を書こうとしたエピソードが興味深い。文字のない世界に生きる庶民の目で見た百年を知りたいと発想できる人だからこそ、『苦海浄土』で語る言葉を持たない人々の世界に分け入れたのだ。

 農家の主婦だった道子の、時を得た人との出会いにも目を見張らされる。雑誌「サークル村」を創刊した谷川雁、高群逸枝の夫である橋本憲三、『苦海浄土』の原型を自分の雑誌に掲載した渡辺京二。

 祖父が天草の道路工事を請け負っていたときに生まれた子供は、道路の完成を予祝して道子と名づけられた。〈人さまとの縁がつながってこそ、道というものは生まれる〉と祖父は語ったそうだが、孫娘の将来をみごとに見通していた。

[評者]佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

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