【東日本大震災】いま明かされる福島第1原発放水冷却作戦の舞台裏

社会

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 水素爆発を起して白煙を吹き上げ、メルトダウンに向かって暴走する原子炉。東日本大震災の際、テレビで流れた福島第1原発の悪夢のような映像は、日本中を、いや世界中を震撼させました。そして、高濃度の放射線の危険の中、原子炉冷却のために立ち向かった放水部隊の雄姿は、大きな感動を巻き起しました。

 刻一刻とデッドラインが迫る中、警視庁機動隊や東京消防庁ハイパーレスキュー隊の放水活動が行われましたが、その先陣を切ったのが陸上自衛隊・中央即応集団(CRF)隷下の「第1ヘリコプター団」でした。高い煙突がそびえ立つ原子炉建屋の上を通過するヘリコプターから、大量の水が投下される映像を、テレビの前で祈るような気持ちで見守った人も多いはずです。

 その決死の作戦の舞台裏が、麻生幾著『前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』(新潮文庫)で明かされています。

■官邸からは、ただ「水を撒け」

 福島第1原発への放水が自衛隊に要請されたのは震災発生から5日目の2011年3月15日でした。現場は高濃度の放射線に包まれているため、地上からは容易に近づけません。そのため、空中からの放水が選ばれたのです。

 が、そんな危険な任務に向かう自衛隊に対して、官邸からはただ水を撒けというだけで、どこへどれだけ撒くのかまったく情報が伝えられませんでした。東電からはおおまかな配置図が届けられましたが、爆発による被害状況は詳しくわかりません。そんな中で放水冷却作戦の検討が始められたのです。

 自衛隊は、独自に情報分析に着手しました。航空自衛隊のRF4Eファントム偵察機が撮影した静止画像を手にした幹部は、思わず「ひでえな」と唸りました。爆発した1号機、3号機、4号機はいずれも屋根がなく、いびつに曲がった鉄骨や鉄筋が剥き出しになっていたのです。自衛隊では変り種といっていい東大工学部原子力工学科出身の隊員を中心に対策が練られ、最終的により緊急性が高い3号機へ水を撒くのを優先することに決定しました。

 次は放水の方法です。最初は部隊のCH-47ヘリコプターで吊り下げた大きなバケツ状の容器に海水をくみ上げ、原子炉建屋の真上でホバリングしたまま投下、放水することが検討されました。ところが、投下する海水は一回につき7トンにもなり、落下する物理的エネルギーの衝撃で構造物が潰れる危険性があります。が、それを避けるために高度を低くすると乗務員が高濃度の放射線を浴びることになります。さらに、放水自体がさらなる爆発を誘発してしまう恐れもありました。結局、上空を通過しながらタイミングを図って放水する方式に決め、練習を繰り返しました。

■自衛隊の総力戦

 いっぽうで装備スタッフは、隊員を放射線から守るためにヘリコプターの床に敷き詰める防護シートを探しました。装備部は震災発生後、驚異的な力で全国から大量の物品を集めて被災地に送る作戦を展開。彼らはあらゆるニーズに応えるために、膨大な種類の商品カタログを保有していたのです。若い隊員たちが寝る間もなく電話をかけまくり、放射線防護の効果がある「タングステンシート」を大量に保管しているメーカーを探し出したのは、放水作戦のわずか一日前。兵庫県伊丹市にある工場からトラックやジェット輸送機のリレー輸送で、放水作戦を行うCH-47ヘリコプターが待機する仙台市の霞目飛行場に到着したのは作戦当日の朝8時半。ぎりぎり間に合ったのでした。

 東日本大震災では、極限的な状況の中で救助、復旧作業に従事した勇敢な「戦士」がたくさんいました。未曾有の大災害に力強く立ち向かった日本人の勇気と規律に対しては、世界中から称賛の言葉が寄せられました。前掲書『前へ! 東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』の中には、このような隠れた英雄たちのエピソードが数多く紹介されています。

デイリー新潮編集部