「藝人」たちに注がれた博士の異常な愛情/『藝人春秋』

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 ブラウン管(今では液晶画面というべきか)の上に、泡沫のように浮かんでは消える「芸人」たちの消息など誰も気にもかけないし、気にする必要もない。面貌と名前がかろうじて一致する頃まで生き延びることが出来れば、まずまずの首尾といえる。観客としてみれば、おもしろおかしい彼らの表層をひととき楽しめればそれで充分なのだ。
 しかし、彼らも一人の人間である以上、秘められた内面や懊悩を抱えているのは当然だ。著者は、彼らが生息し、自らもその一員である世界を「この世のものとは思えぬあの世」と書き、この異界で「目にした現実を『小説』のように騙る」。登場するのは、そのまんま東、甲本ヒロト、石倉三郎、草野仁、古舘伊知郎、三又又三、堀江貴文、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、太田光、北野武、松本人志、稲川淳二、といった面々。中学時代の同級生だったという甲本を除いては、彼らの肖像は、テレビという現場で、実際に見聞した事実に基づいて描かれている。それぞれがエピソードに満ち精彩を放っているが、そのまんま東が、「殿」の鉄拳制裁を受けた際に放った珍妙な言葉や、企画会議でテリー伊藤が放った錯乱気味の雄叫び、湯浅卓と苫米地英人の虚実定めがたいセレブ人生、など、「騙られ」ているとしても、その面白さは魅力的だ。
 もう一つの魅力は、著者の批評眼の的確さ。例えば、プロレス解説者からニュース解説者に転身した古舘伊知郎について、「時代の変遷に取り残されたままリベラルな文脈を強制され続ける、かつての過激な活動家のような窮屈さを思わせる」と評し、「この二人がいることの祝福と呪縛の狭間で我々は育った」という北野武と松本人志について、「二人が強烈なカリスマ性を有するのは、笑いの中に『面白い=切ない=哀愁』が一瞬にして交叉するセンスの水流が常に枯れること無くあるからなのだろう」と書く。
 各章は、過剰なまでの駄洒落を盛り込んだ、いかにも「芸人」に相応しいサービス精神に溢れた文章で綴られているが、「爆笑“いじめ”問題」の章は、ビートたけしに憧れて上京するまでの個人史をたどりつつ、いじめ問題に誠実に向かい合う異色の章となっている。
「男の戒律社会であり、鉄拳制裁が飛び交い、理不尽な暴力すらもまかり通る、文字通り、いじめ社会だった」たけし軍団に飛び込んだのは、自らの思春期に沁み込んだ負性の血を入れ替えるには「他者からの強制、理不尽を受け入れ続け、自分が耐えうるだけの、あらゆる我慢、忍耐の経験が必要だった」から――。これは、現在、流通しているいじめ論に欠けている視点ではないだろうか。
 ともあれ、「藝人」たちに注がれた「博士の異常な愛情」は、熱く深い。

[評者]山村杳樹(ライター)

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