1カ月の公演チケットが2日で完売、本番では緊張で「出るのはイヤ」…56歳で急逝した「越路吹雪さん」の“スーパースター人生”
開演1時間前に「もう出るのはイヤだよ」
一方、仕事の面では、長く続いた東宝専属を、「菊田一夫とケンカして」離れ、劇団四季の浅利慶太氏と組むようになった。このコンビで、1968(昭和43)年から日生劇場のロングリサイタルが始まったわけである。
日生劇場の“ドル箱”となったこのリサイタルも、当初はどれほど客が入るものやら危ぶまれ、1週間だった公演期間を1カ月に延ばす時は、関係者一同、祈るような気持ちだったという。それだけに、彼女の打ち込み方も大変なものだった。
食べることと睡眠には細心の注意を払い、公演中は3時間前に楽屋入りし、体をもみほぐすトレーナーと、のどの調子を診る耳鼻科の医師が連日、つきっきり。舞台衣装はフランスであつらえ、身につける宝石はすべて本物という、今のわが国では例外的な贅沢さだった。
「でも、舞台の1時間前になると、緊張のあまり、決まって胃が痛いといい出して、“もう出るのはイヤだよ”などとこちらの気をもますんです」
というのは、ある劇場関係者。
公演終了後に検査を受けて
ところが、いざ舞台へ出てしまえば、そんなところはまるで観客に気取らせぬ華やかなショーが展開されるのがいつものことだったが、これだけ神経を酷使する舞台を下りた後の彼女を悩ませ続けたのが不眠症だった。
はじめは舞台のあった晩だけ服用していた睡眠薬が、やがて連日となり……内藤氏との間に、結局、子供を作らなかったのも、その副作用を恐れたためと、彼女自身が告白している。
健康にはひどく気を使っているくせに、病院での検査はなぜかいやがり、死去の5カ月前に西武劇場で「古風なコメディ」の公演が終わった後も、胃の不調が続くのでやっと検査を受けてみると、すでに胃ガンが腹膜にまで転移していた。
「あれほどの人でも今後は声の衰えも出てくるだろうし、最後まで舞台は満員という伝説を残したまま逝ったことは、せめてものなぐさめじゃないでしょうか」(ある友人)
父も兄もガンで失った彼女は、自分もガンで死ぬだろうと近しい人には語っていた。最後まで周囲は決してガンであることを知らせなかったが、彼女は罹患を悟っていたのではないか、ともいう……。
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