人口水増し疑惑で富山市役所を家宅捜索…“富山城”でも行われた、史実にない天守と石垣の「水増し」
石垣を「水増し」して史実と異なる景観を創出
「水増し」されたのは城だった。富山は城下町で、かつての富山城の中心部は富山市が所有する「富山城址公園」になっているが、そこではかなり恥ずかしい「水増し」が行われていた。
天守のような建物が堀に面して建っており、向かって右側には堀に面して石垣が続いている。だが、ここは江戸時代までは土を盛った土塁で、石垣は築かれていなかった。そこに史実に反する石垣が積まれてしまったのである。この堀は本丸の南側に位置し、そこから本丸東側に回ると、道路沿いにずっと石垣が続いている。しかし、ここも江戸時代までは土塁で、石垣は本丸搦手門の周囲にしか積まれていなかった。
富山城は基本的に、土塁で築かれた「土の城」で、石垣は一部の要所に積まれているだけだった。だが、富山市は、土塁ではみすぼらしいと思ったのだろうか。遺された土塁を、どんどん石垣で固めてしまった。
本丸東側の土塁には地下駐車場の入口がもうけられているが、石垣に囲まれた城門風に整備されている。また、2008年には、かつて東出丸にあった藩主の隠居所の正門「千歳御門」が、本丸東側に移築された。その際、せっかく残されていた土塁をわざわざ削って入口を整備し、周囲には石垣が新造された。結果として本丸東側の土塁は、いまではすっかり石垣や門で固められているが、そのほとんどは平成になってから、残された遺構を壊して「水増し」された景観である。
要するに、一見すると立派に見えるかもしれないが、史実とは関係がない景観が、富山市の手で次々と創出されてしまった。富山市のルーツである富山城に残された遺産を、いとも簡単に壊して「水増し」する精神は、筆者にはまったく理解できない。しかも、富山市の富山城に関する「水増し」は、もう少し古くからの歴史がある。
天守がなかった城に天守を「水増し」した
富山藩は寛永16年(1639)、加賀藩3代藩主の前田利常が、幕府の許可を得て次男の利次に越中富山10万石を分けあたえたことに始まる。万治4年(1661)以降、天然の堀とされた神通川のすぐ南に、広大な内堀に浮かんだような内郭を、三の丸や東出丸が取り囲む広壮な城郭が整備され、明治維新まで存在した。
だが、明治に廃城になると城内の建物は払い下げられ、河川改修で神通川の流れが遠のくと、旧河川敷の市街化にともなって城の堀も次々と埋められ、旧本丸などわずかな部分を残して市街化された。そのうえ1945年8月2日の大空襲で、富山の市街地は99.5%が焼失してしまった。
空襲の被害が日本の都市でも有数だっただけに、1954年に富山城址公園で開催された産業大博覧会に大きな期待が集まった。富山市はむろんのこと富山県も産業界も、この博覧会を戦後復興の契機にしようという強い意気込みを持つに至り、復興のシンボルとして鉄筋コンクリート製の天守が建てられることになった。「天守のような建物」と前述したのがそれである。
だが、富山城に天守が建った記録はない。遺されている当時の絵図にも天守は描かれていない。それでも天守がほしかったようで、強引なことが行われた。本丸の正門だった鉄門の石垣上に、史実と関係ない天守風の建物が建てられたのである。外観は犬山城や彦根城の現存天守が参考にされた。
市街地のほとんどすべてを焼き尽くされた富山の人たちが、復興のシンボルを欲したのはわかる。だが、この産業博覧会では、エセ天守が建てられた一方で、せっかく残っていた堀はどんどん埋め立てられた。ニセモノを創って景観を「水増し」する一方で、かけがえのないホンモノの史跡は破壊された。そんなニセモノの天守が、2004年に「地域の景観の核」として、国の有形文化財に登録されてしまった。悪い冗談としか思えない。
戦後の富山城に見られた、ホンモノは壊し、ニセモノで景観を「水増し」する富山市の姿勢。先人から受け取った地域の文化遺産を尊重せず、それをみすぼらしいと思い込み、史実と無縁の景観を創り上げて虚勢を張る姿勢。なんて恥ずかしいことだろう。そんなことをしていても尊敬されないし、信頼もされない。明るい未来につながらない。
三つ子の魂百まで、ではないが、人口の「水増し」は文化財や史跡の「水増し」と同根なのではないだろうか。
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