【風、薫る】見習生を終えていきなり「看護婦長」に抜擢 見上愛「一ノ瀬りん」を退職に追い込む「東大教授」たちのプライド

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権威主義は「東大医学部」の「伝統」か

 さて、こうして和や雅が働きはじめたころ、第一医院における看病婦の待遇は、仕事の内容に見合うものではなかった。定められた給与は、経験や技量によって日給10~50銭。当時の女子の工場労働者は日給8~13銭だったというから、それにくらべればマシだが、同じ病院に勤務する事務員や薬剤師は月額8~40円で、日給だと26銭~1円30銭ほどになった。その半分以下の給料で甘んじるしかなかったということだ。

 そんななか、和や雅らはトレインド・ナースという専門職として認められ、給与面でも事務員や薬剤師らと同等のあつかいを受けたという。とはいえ、ハードワークに見合う給与とはいえなかったようだ。

 大変だったのは、やはり看病婦のあつかいだった。旧態依然たる看病婦たちは、英国式の看護服を身にまとい、医者に負けないほどの知識をもって立ち回る和や雅ら看病婦取締が気に入らない。不平不満をいうばかりで、和や雅らの指示に従おうとしない。だが、和らから見たら、看病婦が気の毒でもあった。彼女たちは低い給料で、長時間にわたって過酷な仕事を強いられ、いつも疲れ切っていた。

 一方、和はすぐれた仕事ぶりが次第に知れ渡るようになり、有力者の手術とあれば、必ず呼ばれるようになったという。しかし、仕事熱心で曲がったことが嫌いな彼女は、周囲との軋轢も生む。たとえば、内科の看病婦がだらしない髪形をしていえば注意をする。しかし和は外科の看病婦取締だから、内科の医局に呼び出され、「我内科看護婦に、かれこれ言うは甚だ失敬なり、甚だ無礼なり」と大いに叱責されている(『中外医事新報』)。

 東大医学部の教授は縦割りでなおかつ権威主義的だ、という批判を、東大医学部出身の医師から聞くことがあるが、それはこのころからの「伝統」なのだろうか。

和の建議書が招いた猛烈な反発

 また、そのころ第一医院では、希望する看病婦たちに、医師や看病婦取締が講義や実地指導をする看護講習が行われていた。だが、看病婦たちはただでさえ仕事量が多く、仕事と講習を両立するのが大変で、倒れてしまう看病婦も現れた。

 あるときそういう看病婦を和が介抱し、点滴をほどこしていると、それを見た医師は、点滴などしたら余計な金がかかると苦情をいったという。そんなことを受け、和は看病婦の待遇改善を訴えたが、無視されてしまう。そこで看病婦たちの過労働を指摘し、賃金の引き上げや昼夜二交代制による休憩時間の確保などを求め、外科の責任者である佐藤三吉教授に宛てて建議書を提出した。「外科看病婦取締大関和 謹んで書を医科大学第一医院外科監督佐藤教授閣下に呈す」――。

 だが、これが和にとって命取りになった。外科の医師たちは、自分たちの頭越しに、外科のトップである佐藤教授に建議が行われたことで、プライドを傷つけられ、大いに憤慨することになったのである。和を高く評価していた佐藤教授だったが、ここまで事態がこじれると、医師と反りが合わない和を看病婦取締のまま置いておくことができず、和は解任されてしまう。

 看病婦取締に就任して1年ほどの明治23年(1890)の秋、和は第一医院を退職した。和の行動は真っすぐすぎたと思われるが、なによりも自分たちのプライドが大事だった当時の教授たちもいかがなものか。じつは、それから1年もしないで、雅も第一医院を退職した。和の退職後に、第一医院の看病の質が低いと新聞に報じられているが、一言でいえば、和や雅の懸念が正しく、それを第一医院が受け入れなかったから、すぐれた看護婦の退職を招いた、ということだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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