【風、薫る】上坂樹里「直美」のモデルは幕臣の娘のはず なぜ“女郎の産んだ孤児”に?設定変更の深い背景

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死別した旧幕臣の夫とのあいだに一男一女

 花魁と帝大生の心中は衝撃的なので、実習生は口々に彼らの噂話をしたが、「患者の噂話は厳禁だ」とくぎを刺したのは鈴木雅だった。彼女は横浜のフェリス・セミナリー(フェリス女学院の前身)にいたころ、逃げてきた娼妓たちをかくまった経験があったという。だから、娼妓たちの立場への理解が深かったようだ。

 しかし、雅自身は生まれや育ちにおいて、女郎や娼妓とは縁もゆかりもなかった。

 雅は安政4年(1858)、幕臣の加藤信盛と、やはり幕臣の娘だったトヨのあいだに生まれている。父の加藤信盛は最後まで幕臣として戊辰戦争に参戦し、徳川家が駿府(静岡市)に移封となって駿府に移っている。雅に幸いだったのは、父が当時の士族には珍しく、女も学ぶべきだという考えだったことだ。五稜郭戦争にまで従軍し、辛酸をなめた経験をもつだけに、あたらしい時代は女子にも教育が必要だと、実感していたのではないだろうか。

 しかし、駿府学問所は男子しか入学できなかった。一方、横浜に行けば、宣教師が作った学校で英語はもちろん、数学や理科、天文学まで学べるという。そこで信盛は、長女の雅を横浜に送り、日本婦女英学校を前身とする共立女学校(現・横浜共立学園)やフェリス・セミナリーで学ばせたのである。

 そんな雅に縁談が持ち込まれた。相手はやはり旧幕臣の鈴木良光で、戊辰戦争は幕府方として戦ったが、明治4年(1871)に陸軍に入隊して西南戦争などに従軍。戦功を挙げて少佐に昇進したところで雅と結婚した。良光は25歳、雅は20歳だった。一男一女をもうけたが、結局、良光は西南戦争で大腿部に被弾した傷が完治せず、これが原因で6年後に赴任先の仙台で死去してしまう。

看護婦見習の3人は娼妓解放運動へ

『風、薫る』のりんと直美は、身分も生まれも育ちも現況もなにもかも対照的である。しかし、このように直美のモデルの鈴木雅は、生まれも育ちも境遇も、家老の娘で結婚経験があり、一男一女の母である(りんは一女のみだが、和には一男一女がいた)大関和と重なるところが多い。

 だが、せっかくW主演でドラマを展開するのに、2人のヒロインが似たような境遇では話の彫りが浅くなってしまう。そこで大家直美を、モデルの鈴木雅とはまるで違う境遇の設定にしたのだろう。では、どんな境遇にするか。彼女たちが看護婦見習を務めているまさにそのときに、女郎が病院に運ばれてきた、という逸話をきっかけに、直美は女郎が産み落とした、という設定を脚本家は思いついたのではないだろうか。

 そのころの女郎は、明治5年(1872)に芸娼妓解放令が施行され、前借金で拘束されることが表向きは禁じられていた。だが、本人の意志ということにして、事実上、女郎を借金で縛りつけることが横行していた。だから心中なども発生したのである。

 第一医院に担ぎ込まれた花魁は、女郎屋の主人の温情で証文が破棄され、自由の身になった。それは当時としては例外的な、恵まれた措置だった。しかし、両親と兄夫婦がいる田舎に帰ったところで、居場所があったのかどうか。当時は一般に女郎の出戻りに厳しく、居場所を見つけられずにふたたび女郎に戻る女性もめずらしくなかった。

 そんな理不尽な暮らしを強いられていた女郎と、看護婦見習との邂逅。しかも、看護婦見習もまた女郎の娘なら、この問題を深掘りすることができる。

 実際、『風、薫る』の梅岡女学校のモデルである櫻井女学校は女子学院の前身の一つであり、女子学院の初代院長となった矢島楫子は、廃娼運動などに熱心に取り組んだ婦人矯風会の初代会頭でもあった。第一医院で実習した櫻井女学校附属看護婦養成所の生徒のうち3人は、実習を終えたのち看護婦にならず、婦人矯風会に入って廃娼運動に勤しむことになった。

 女郎の問題は、『風、薫る』のモデルになった人たちのあいだでも、かなり深く受け止められていたのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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