【豊臣兄弟!】女子供の磔が池松壮亮「秀吉」のトラウマに…というウソ NHK大河では描けない残虐行為のおぞましい中身

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凄惨な光景に耐えられないというナンセンス

 さて、磔や串刺しにされた女子供たちの前に秀吉が立っていたということは、ついに『豊臣兄弟!』でリアルな秀吉が描かれるということか。しかし、そうではないようだ。第22回「播磨大誤算」(6月7日放送)で、小一郎から問い詰められた秀吉は、城に入ると城内の者はみな自害していたと明かす。ただ、竹中半兵衛(菅田将暉)が、わざと自分たちが手を下したように見せたほうが、敵に対する見せしめになると提言したので、それに従ったというのだ。

『信長公記』に当たり前のように書かれている斬殺は、秀吉の仕業ではないことにされてしまうのである。しかも、秀吉を「いい人」として描くために、さらなる仕掛けが凝らされている。秀吉は上月城を退いてから悪夢にうなされ、記憶が戻らない。それがあるとき、上月城の凄惨な光景がフラッシュバックし、耐えきれずに飛び出す。城内の人々がことごとく死んでいた情景に、それほど大きなショックを受けた、という描き方になるわけだ。

 だが、すでに述べたように、そんなにやわな「いい人」だったら、百姓から成り上がって天下を獲るという離れ業を成し遂げられたはずがない。それ以前に、凄惨な光景を見て記憶を失っているようでは、戦国時代を生き抜くことなど到底できない。『信長公記』が記したように、ある地域を平定するためには敵を皆殺しにすることも必要で(少なくともそう認識されていて)、その戦果が「まことにめざましい」と評価されるのが、戦国時代の常識だった。

 しかも、史料にも秀吉が行った残虐行為について書かれているのに、それを隠して、現代的なヒューマニズムや人権意識を持ち込んでしまえば、その時点で戦国時代の描写ではなくなってしまう。凄惨な状況に対して、史実を無視してまで目をつぶりたいなら、戦国時代はドラマ化しないほうがいいと思う。

尽きない秀吉の残酷なエピソード

 その後、秀吉が行った「三大城攻め」は、味方の損失は最小に抑える作戦で、その意味では、なるべく血を流さない戦術だったが、目的は人命尊重ではない。あくまでも兵力を温存するためであり、しかも、敵に対してはきわめて残酷な戦法だった。

 上月城を落としてしばらくすると、三木城(兵庫県三木市)の別所長治が毛利方に寝返って籠城した。これに対して秀吉は、天正6年(1578)から徹底的な兵糧攻めを開始。周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築く臨時の城)を築いて1年10カ月にわたって包囲し、食糧の補給路を完全に断って降伏させた。

 このとき「三木の干殺し」という凄惨な状況が生まれた。餓死する者が続出し、生き残った者は牛馬のほか、壁の土や草の根、さらには餓死者の肉まで食べたと伝わる。結局、別所一族の自刃と引き換えに城兵を助ける、という約束で降伏させたのだが、秀吉は助ける約束の城兵を虐殺したという史料もある。

 天正9年(1581)に鳥取城(鳥取市)を攻囲した際は、より徹底した封鎖作戦がとられ、「鳥取城の渇え殺し」という凄惨な状況が生じた。周囲の米を相場の数倍もの高値で買い占め、城内への備蓄を困難にしたうえで2万の大軍で包囲して、外部からの補給を完全に断った。その結果、城内では人肉の奪い合いさえ起きたと伝わる。

 続けて、天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起きた時点で行っていたのが、「高松城の水攻め」だった。備中高松城(岡山市)の周囲に堤防を築いて水を引き入れ、城兵を飢えさせて降伏に導いたのだ。

 信長がいなくなってからの秀吉は、さらに残酷な策を平気で講じるようになるが、信長の配下で働いていた時点でも、ここまで残酷だった。だが、これを残酷といっては秀吉に失礼かもしれない。戦国時代の常識に照らせば、これだけが取り立てて残酷だったとはいえないからである。そして、秀吉がその「常識」から目を背けていたら、豊臣政権は誕生していなかったに違いない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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