なぜあの年だけ輝いたのか…「ノーノー男」、「落合博満を追いやった4番」、「交流戦無双右腕」の“短すぎた全盛期”
落合さんには潰れてほしいというのが本音です
落合博満から4番の座を奪いながら、実質1シーズン限りの活躍で終わったのが、日本ハム・西浦克拓だ。
上宮高時代は同期の黒田博樹(元広島など)より評価され、背番号1の投打二刀流だった。1992年にドラフト5位で日本ハムに入団すると、97年にイースタン本塁打王を獲得。1軍でもシーズン終盤に4本塁打を固め打ちし、22歳の和製大砲として期待がかけられた。
ただ、一塁には“球界の至宝”落合博満がいた。ライバルと呼ぶにはあまりにも偉大な存在だったが、西浦はレギュラー獲りに意欲を燃やし、「落合さんには潰れてほしいというのが本音です」という大胆発言でも注目を集めた。
翌98年、7月10日までにチームの日本人選手では最多の14本塁打を記録した西浦は、翌11日のロッテ戦から“ビッグバン打線”の4番に座る。同時期に打撃不振でスタメン落ちした落合を押しのける形になった。同年は前半戦の17本塁打に対し、後半戦は3本塁打と失速。それでも打率.245、20本塁打、62打点をマークし、落合は同年限りで引退した。新旧交代を印象づけるシーズンとなった。
ところが、翌99年は開幕戦から2試合4番を務めたものの、6打数無安打。出場66試合、打率.235、2本塁打と成績も急降下した。
高校時代に100メートル走の校内記録を樹立するなど、西浦は走攻守3拍子そろったトリプルスリー型の選手を目指していた。首脳陣から大砲としての役割だけを求められるうち、腹筋や股関節などの故障も重なり、自分の打撃を見失ってしまう。2000年以降は20試合前後の出場がほとんどだった。44試合に出場した03年に6本塁打を記録したが、05年に1軍出場なしで終わると、シーズン後に引退した。
再び輝きを取り戻せないまま
1シーズンというより、交流戦前後の3ヵ月間だけ輝きを放ったのが、中日・佐藤充だ。
大学、社会人を経て、2004年にドラフト4巡目で入団。右肩、右肘の故障に泣き、翌05年3月に右肘の手術を受けた。これを機に肘への負担を減らすフォームを心掛けたことが吉と出る。28歳になった06年の交流戦。5月18日のオリックス戦でシーズン初勝利を挙げると、ここから“不敗伝説”が幕を開ける。
同25日の西武戦でプロ初完投初完封勝利を記録し、6月1日のオリックス戦も1失点完投勝ち。同8日のロッテ戦も三塁を踏ませず、シーズン2度目の完封勝利を挙げ、交流戦防御率0.89とトップに躍り出た。タレントのKABA.ちゃんに似ていることから命名された“カバちゃん”の愛称も、すっかりおなじみになった。
さらに6月15日の西武戦も1失点完投し、4試合連続完投勝利。交流戦では最多の5勝を挙げ、防御率0.91と圧倒的な成績を残した。交流戦後も快投は続く。6月28日のヤクルト戦は3失点ながら完投勝利を挙げ、5試合連続完投勝利は、球団では1961年の権藤博以来のタイ記録となった。
7月5日の巨人戦は7回1失点で降板し、球団新記録は幻と消えた。それでも同28日の巨人戦で8回無失点の8勝目を挙げると、「今までで一番悪かった。でも、ゼロで抑えたんだから、一線は越えない。素晴らしいことですよ」と落合博満監督を喜ばせた。
“不敗伝説”は8月4日のヤクルト戦で終わりを告げる。4本塁打を被弾し、6回6失点KO。開幕からの連勝も「8」でストップした。
「もう一度意識を持って投げられるように自分の原点に戻る」
出直しを誓った佐藤だったが、その後は1勝3敗と急降下してシーズンを終えた。翌年以降も再び輝きを取り戻せないまま、11年の楽天を最後に現役引退となった。
藤本のノーヒットノーラン、西浦の20本塁打、佐藤の交流戦での無双劇。いずれも長いプロ生活の中では、ほんの短い輝きだった。だが、選手の価値は通算成績だけで決まるわけではない。
たった1年、あるいは数ヵ月でも、ファンの記憶に強く刻まれるシーズンがある。その輝きが一瞬だったからこそ、かえって忘れがたい。藤本、西浦、佐藤の名前が今も語り継がれるのは、彼らが確かに主役になった時間があったからだ。
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