「細木数子」が借金4億円の「島倉千代子」を救った“美談”の裏側 「島倉がまたとない“金づる”と気付き、管理下に…」 【「地獄に堕ちるわよ」が大ヒット】
話ができすぎている
全盛時の島倉は美空ひばりと並び評されるスター歌手だった。が、美空ひばりとの違いがこんなところにある、と『島倉千代子という人生』の著書があるジャーナリストの田勢康弘氏は言う。
「美空にはすべてを仕切る母がいましたが、そういう人が島倉さんにはいなかった。ほかの家族とは絶縁状態で、傍にいて信頼できる人がいなかったのです」
かくして、島倉は3年にわたり、赤坂にあった細木の5LDKのマンションで同居するが、そうなった経緯を島倉も細木も当時、概ね次のように語っていた。
自宅にも債権者が乗り込んできたため、島倉は知人宅に預けられたが、77年2月末日、思いつめてガウン1枚で街をさまよい歩いていると、偶然細木が通りかかった。そして自宅に島倉をかくまったばかりか、同情して借金返済に協力してくれることになった。細木の助けがなければ、島倉はきっと自殺していた――。
当時、細木は赤坂でクラブ「艶歌」や、ディスコ「マンハッタン」を経営していた。そして3月14日、島倉の代理人として、「艶歌」で第1回債権者会議を開いたとされている。当時を知るノンフィクション作家の塩沢実信氏が言う。
「細木は当時、こんなふうに語っていました。債権者会議では、4億3000万円の手形総額の約3分の1、1億5000万円を現金で用意し、それでよいという債権者には即刻支払うと提案すると、大多数が同意した。こうして島倉の借金は一挙に1億5000万円に減り、債権者も細木ひとりになった――。それを“友情”だと美談に仕立てて報じる芸能マスコミが目立ちましたが、守屋氏の会社が倒産した直後に細木との運命の出会いがあって、あっという間に事態が収拾するとは、あまりにも話ができすぎています」
美談の嘘
ジャーナリストの溝口敦氏は、細木との“出会いの美談”は嘘だと、こう語る。
「赤坂に安部正明という政界や芸能界、暴力団などに顔が広いフィクサーがいて、その夫人が私に語ったのは、こんな話でした。島倉千代子はコマ劇場の楽屋まで債権者に押しかけられ、困って安部に電話をしてきた。そこで安部は島倉を家に連れて帰り、公演が終わるまで自宅でかくまうことにし、連日、島倉を送迎した。たまたま安部家に遊びに来た細木が島倉の事情を知ると、その送迎役を買って出たというのです」
街中での偶然の出会いなどなかったのだ。
「細木は当時、クラブやディスコを経営していましたが、あまり儲かってはおらず、安部夫人によれば“その日暮らしだったのではないか”。細木は島倉を送迎し、楽屋でも少しずつ取り入った。そしてコマ劇場の千秋楽、島倉は安部に“お暇をください”と告げる。安部がその言い草に怒ると、玄関口から細木が現れて、慌てて島倉を連れていった。島倉がまたとない金づるだと気づいた細木は、こうして島倉を自分の管理下に置いたんです」(同)
ちなみに件の「艶歌」は、かつて作曲家の猪俣公章が経営していたが、のちに暴力団の小金井一家の手に渡っている。一家の総長は堀尾昌志という男性だった。
「当時、堀尾の住所は細木が島倉と同居した赤坂のマンションでした。細木は堀尾の内縁の妻で、要は、島倉千代子は債権者の圧力の下から、小金井一家の管理下に移ったのです」
と塩沢氏。事実、当時の会社登記を確認すると、細木が経営していた中央三光商事の監査役にも、堀尾の名が見て取れる。
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かくして島倉を自らの管理下に置くことに成功した細木。では、それによって、彼女はどれくらいの富を得たのか。そして、島倉は細木の存在をどのように捉えていたのか。【後編】で詳述する。
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