「オレの額の傷を見ろ。ユーたちの心の傷も見せてくれないか?」 伝説の悪役レスラー「アブドーラ・ザ・ブッチャー」知られざる優しき素顔

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猪木との試合は…

 そして、その流れる血が呼んだのは、マネーだけではなかった。

 1979年、「週刊少年マガジン」でギャグ漫画『愛しのボッチャー』が始まる。モデルはブッチャーで、馬場と猪木を思わせるキャラクターとドタバタを繰り広げていた。翌年には「サントリーレモン」のCMに登場。本人の歌唱も入ったレコード「ザ・ブッチャー」も発売され、さらにその翌年には、東映映画「吼えろ鉄拳」に出演。用心棒役として真田広之と共演した。瓢箪のような体型(失礼!)に、よく見れば可愛いドングリまなこ。ヒールとしてのギャップもあいまり、ブッチャーは日本中の人気を呼んだのである。 

 この人気に目を光らせている男たちもいた。全日本プロレスのライバル、新日本プロレスの“仕掛人”新間寿と梶原一騎、及びその腹心のレフェリー、ユセフ・トルコである。トルコのコネクションから、ブッチャーを全日本から低き抜くことに成功するのだが、以下は新間寿が筆者に明かした回顧である。

「都内のホテルに部屋をとってね。そこで金額含め、移籍の話し合いをしたんだけどさ。ビックリしたよ。ドア開けたら真っ暗なの。で、蝋燭は灯っていたかな……そこに黒いサングラスをしてブッチャーがいて……。こっちは諸手をあげての歓迎という感じなのにさ。終始ドスの効いた声でねえ。マフィアみたいだった」 

 極めつけは、新間が息子のために、サインを貰おうとした時のことだった。

「ブッチャーは、『申し訳ないが、契約が締結するまでは、いかなるサインにも応じられない!』と。自分を大きく見せるというか、一種のプロ意識なんだろうけど……。暗闇の演出含めてね」

 新日本移籍後の、猪木の回想もある。

〈興行面でのブッチャーの貢献度は高いのは事実だった。(中略)こと集客力に関しては、(タイガー・ジェット・)シンとは比較にならなかった〉(「週刊大衆」2021年12月20日号)

 当然、猪木とブッチャーは激しく抗争する筈だったのだが……そうはならなかった。

〈はっきり言えば、俺はブッチャーのスタイルが好きではなかった。(中略)グラウンドでお互いの力をぶつけ合うような試合がブッチャーではできない〉(同)

 1981年6月、ブッチャーは新日本プロレスで初の実戦をおこなうが、折悪く、その3ヵ月後には、崩壊した国際プロレスの残党、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇が新日本に参戦を表明。猪木のメインの相手はラッシャー木村となっていく。生き残りを懸けた元他団体の日本人エース(木村)という存在は、確かに猪木の標榜する“過激なプロレス”にピッタリだった。一方、猪木とブッチャーはやはり噛み合わず、ブッチャーはメインから外れて行った。 

 1987年末には、全日本プロレスに復帰。やはり水が合ったのか、大声援で迎えられた。しかし、何故か外国人勢の控室に姿を見なかった。見ると、衝立で急造されたスペースに、パートナーのジャイアント・キマラといるのである。人種差別の影響だと、レフェリーに明かしたのは、ジャイアント馬場だった。

〈ブッチャーが子供のころは白人と黒人が同じプールに入るなんて考えられなかったはずだ。誰か黒人が入ったとしたら、きっとみんな水を取り替えるな。それほど人種差別は厳しかったんだよ。(黄色人種の)俺だって60年代にはアメリカで差別を受けた。(中略)レストランのオヤジが飛んできて、ピストルを突きつけてきた。ここはお前たちの来るところじゃない、と足下を一発撃たれた。あの恐怖はないぞ〉(和田京平著『人生は3つ数えてちょうどいい』メディアファクトリー刊より)

 前出の「サントリーレモン」のCM撮影の際も、ブッチャーは着替えるのにロケバス内を使わず、簡易トイレまで行き、一人で着替えていたという。馬場のはからいで、上記の衝立のように、小さくても黒人レスラーのためのスペースを仕立てると、うら若きスタッフにもブッチャーは「サンキュー、サンキュー」と頭を下げるのだった。

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