【豊臣兄弟!】残忍すぎてNHK大河では絶対に描けない 信長の比叡山殺戮と意外な動機

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政治的な報復措置だった

 しかし、翌元亀2年(1571)になると和睦は破られてしまう。延暦寺はというと、信長の要求を無視して、その後も朝倉・浅井軍を支援し続け、信長はそのことへの恨みを募らせていった。ふたたび『信長公記』を引用する。

〈比叡山の山上・山下の僧衆は、延暦寺が皇都の鎮守であるにもかかわらず、日常の行動でも仏道の修行でも出家の道をはずれ、天下の笑いものになっているのも恥じず、天の道に背くことの恐ろしさにも気づかず、色欲に耽り、生臭いものを食い、金銀の欲に溺れて、浅井・朝倉に加担し、勝手気ままな振るまいをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった〉

 信長は、延暦寺が浅井・朝倉に加担するだけでなく、さまざまな点で道を外れていても、遠慮をして兵も収め、せめて中立でいてほしいという提案が受け入れられるのを待っていた、という。だが、1年経っても、信長の提案は無視されたままだったので、元亀2年9月12日、自分の提案を無視したときは比叡山を焼き討ちするという1年前の宣告を、ついに実行に移したのである。

 この経緯からも、信長は宗教的権威を否定しようとしたのではない。「皇都の鎮守のくせに」「仏道を歩むべきところがけしからん」という思いが信長にあったにせよ、焼き討ちはあくまでも、浅井・朝倉を支援して自分を苦しめた組織に対する報復として行われたということが、『信長公記』の記述からわかる。延暦寺が宗教的権威だから焼き討ちしたのではなく、政治的な抵抗勢力が、たまたま宗教的権威だった、という話である。宗教的権威に対しても怖気づかなかった、とはいえるが。

悪魔の仕業としか思えない凄惨さ

 いずれにせよ、行われたことは凄惨をきわめた。『信長公記』は次のように記す。

〈その鬱憤を今日こそ晴らすため、九月十二日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧房・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山ことごとく灰燼の地と化した。

 山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆はだしのままで八王寺山へ逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。諸隊の兵は、四方から鬨の声をあげて攻め上がった。僧・俗・児童・学僧・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識の高い僧であるなどと言上した。そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して宥さず、一人残らず首を打ち落とした。哀れにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった〉

 悪魔の仕業としか思えないほどの想像を絶する惨たらしさで、『豊臣兄弟!』では到底描くことができない。

『信長公記』には続けて〈信長は、年来の鬱憤を晴らすことができた〉と書かれている。自分を散々苦しめた敵に報復して鬱憤を晴らした、ということだ。すると、信長の感情を満たすための行動だったようにも読めるが、信長には冷徹な計算があった。

 この時代、災害や戦乱から領民を守れない領主は信用されなかった。延暦寺のような寺院も領主であったので、その点では同じだった。だから信長は、女や子供まで徹底的に殺害することで、延暦寺が領主として失格であることを世の中に知らしめたのだ。当時、信長は各地で寺院勢力と戦っていたが、延暦寺への仕打ちは、信長に抵抗したら寺院としても領主としても存立し得ないという、強烈なメッセージになっただろう。

 そうした動機も含めて、延暦寺の焼き討ちは、きわめて政治的な事件だったのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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