【豊臣兄弟!】浅井長政に信長を裏切らせた朝倉景鏡 戦国時代にも類がない“最低野郎”がやったこと

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主君をだまして切腹させる

 永禄7年(1564)に加賀の一向一揆征伐に臨んだ際は、景鏡と景隆を総大将に、景垙も参戦したが(いずれも朝倉一門衆で義景の従兄弟)、内輪揉めの末に景垙が自害するに至っている。元亀元年(1570)4月、前述したように織田信長が越前国敦賀郡に進攻し、朝倉方の手筒山城や金ケ崎城(ともに福井県敦賀市)を攻めた際も、景鏡はこれらの城を守る景恒に合流しようとしなかった。なにかと身勝手な行動が目立つ人物だった。

 その後、当主の義景との関係は微妙になったようだが、それでも元亀3年(1572)、信長が小谷城の正面の虎御前山に陣城を築いて小谷城への攻撃をはじめると、義景は2度にわたり、景鏡を援軍として小谷城に派遣している。ただ、そのとき朝倉方の多くの家臣が織田方に寝返ったのをみると、すでに景鏡には戦う意志がなく、機会を見て織田方に寝返るつもりだったのかもしれない。

 そして運命の天正元年(1573)8月が来る。いよいよ小谷城が孤立すると、義景は景鏡に救援を命じるが、景鏡は兵が疲れていることを理由に拒否してしまう。結局、義景みずから出陣するが、朝倉方が守る小谷城周辺の陣城などが次々と陥落し、8月13日に義景は撤退を決断。越前に向かって退却するが、その間に近江との国境の刀根坂で信長軍の追撃を受け、壊滅寸前になる。信長はそれでも容赦せず、越前国内まで義景を追撃し、義景はかろうじて一乗谷に帰り着いたものの、留守を守る兵の多くは逃走してしまっていた。

 そこに登場したのが景鏡だった。義景に一乗谷を放棄するように勧め、自領である越前大野の洞雲寺(福井県越前大野市)に逃れて再起をはかることを提案した。その後、義景は防備しやすいという賢松寺に移ったが、そこを景鏡が兵を率いて襲い、義景を自刃させたのである。

注がれ続けた冷ややかな視線

 信頼性が高い史料である太田牛一の『信長公記』にもこう書かれている。

〈朝倉の同族で朝倉景鏡という者が、無情にも朝倉義景に切腹をさせた。鳥居景近・高橋景業が介錯をし、この両人は主君義景のあとを追って切腹した。なかでも高橋景業の死にぎわは、見事なものであったという。八月二十四日、朝倉景鏡は義景の首を府中竜門寺の信長の陣へ持参し、挨拶をした。景鏡は朝倉一門の武士団の総領でもあり、義景の親類でもあるのだから、このたびの働きは前代未聞のことであった〉(中川太古訳)

 親戚で、主君の首を敵の陣に届ける。まさに〈前代未聞〉だというのが信長自身の感想でもあったのだろう。

 その後、信長から本領を安堵され、さらには信長から偏諱を賜り(1字をもらい)、土橋信鏡と名乗った。信長は朝倉家内部の分裂をはかって義景を追い込もうとしたので、景鏡の裏切りを積極的に受け入れたが、保身のために主君と一族を売った景鏡は、織田家臣からも朝倉旧臣からも同時代の人々からも、「信義に欠ける」として冷ややかな目で見られたようだ。信長自身の本音も、そこにあった可能性がある。

 結局、信長からの信頼も薄いまま、天正2年(1574)、越前一向一揆が発生すると標的にされて討ち死にし、2人の息子も処刑された。子どもはかわいそうだが、本人には「自業自得」とか「因果応報」という言葉ばかりがふさわしく思える。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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