【風、薫る】見上愛演じる一ノ瀬りんのモデルが離婚を決断 “超・年の差婚”夫の鬼畜の所業
大関和の結婚相手は家老の次男
だが、それにしても、亀吉のりんに対する態度はひどかった。りんはなんとかよい夫婦になろうと奮闘するが、亀吉は彼女に学があることを妬み、大酒飲みで酒癖が悪く、夫婦関係は円滑に回らない。結婚直後から、りんが「旦那様は釣りはしますか?」と聞けば、「学のねえ男には、釣りの話でもしとけばいいってか?」とケチをつけ、「酒持ってこい」。「旦那様、少しお酒を控えていただけませんか?」といっても、「酒! 酒!」と怒鳴りつける。
りんの娘が3歳になるころには、亀吉の態度はさらにぞんざいになった。結局、りんは娘の環を抱いて逃げ出すのだが、では、りんのモデルになった大関和の場合は、どうだったのだろうか。
大関和は生まれた年も結婚した状況も、一ノ瀬りんとは違うところが多い。結婚した年齢は18歳で、りんと同じだ。だが、りんは明治16年(1883)ごろ結婚したから、生まれは慶応元年(1865)ごろだが、和は安政5年(1858)に生まれた。つまり7年程度早い。結婚したのは、ちょうど秩禄処分が断行された明治9年(1876)だから、士族の急激な没落がいっそう生々しい時期だった。
和の父の大関弾右衛門増虎は、下野(栃木県)の那須郡の小藩だった黒羽藩の家老で、黒羽藩主は代々大関家だったので、弾右衛門もその一門と思われる。明治維新後は東京に移住し、和もしばらくは東京で暮らした。その後、縁談が舞い込んできたのである。相手はやはり黒羽藩の家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進豊綱。戊辰戦争に参戦し、維新後は陸軍少尉補として東京鎮台に、続いて陸軍少尉として熊本や広島の鎮台に勤務した経験があった。黒羽一帯の大地主でもあったという。
小さな藩の家老同士だから、親も子もたがいに知り合いだったことだろう。ちなみに、和が結婚した当時、父の弾右衛門はまだ存命で、その年のうちに病没している。
夫に何人もの妾と子ども
このように、和と渡辺豊綱のあいだには、『風、薫る』のりんと奥田亀吉と違って、出自の「不釣り合い」はなかった。ただ、渡辺家は維新後にそれなりに成功し、大関家はそうではなかった点が、『風、薫る』の奥田家と一ノ瀬家の関係と重なる。しかも、家格の釣り合いはとれていたから、当時、和は「玉の輿」として祝福されたという。
ただし、豊綱の年齢はすでに40歳だった。りんにとっての亀吉のように、和にとってかなり年長の夫だった。
和は結婚の翌年に長男の六郎を、その3年後に長女のシンを生んだ。だが、シンが生まれてすぐに渡辺家を去って離婚し、母親らが暮らしていた東京に戻っている。2歳の長男と乳飲み子の長女を連れて婚家を出たのだから、よほどの事情があったに違いない。
その当時、男が妾をもつことは法的にも認められていたので、渡辺豊綱を現代の道徳観から一方的に弾劾することはできないとは思う。当時、事実上の一夫多妻は珍しいことではなかった。それにしても、豊綱にはいったい何人の妾と子どもがいたのだろうか。一般には、どんなに絶倫であろうと、妾を囲いきれないし、子どもを養育できなかったが、それが大地主の豊綱にはできた。
和は夫に何人もの妾やその子がいることに苦しんだようだ。長男の六郎という名が象徴している。当時、男児が生まれた順に一郎、二郎、三郎、と名をつけるのは珍しくなく、六郎とは6番目を意味した。和にははじめての子なのに6番目の男子。ほかに女児がいた可能性も大いにある。さすがに苦しかっただろう。夫は地主だからそんなことができる、と考えれば、地主の嫁であることが嫌になるのも当然だ。
それに、地主のもとでは小作人たちが収奪され、不作や感染症の流行のたびに、貧しい娘が女郎として売られていく。そんな状況も見ていられなかった。
妻から離婚することが困難だった時代に、それを断行した和。気の毒だが、この決断がなければ、のちに日本のナイチンゲールが誕生することもなかった。







