【豊臣兄弟!】細身イケメンではなく力士並みの巨漢… 浅井長政が裏切りを決意した兄・信長の侮辱

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長政は信長の家臣扱いが嫌だった

『信長公記』にはこう書かれている。〈木目峠を越えて越前中央部へ侵攻する計画であったが、そこへ北近江の浅井長政が背いたとの情報が次々に入った。しかし、浅井は信長のれっきとした縁戚であり、その上、北近江一帯の支配を許していたのだから不足があるはずはない。信長は、浅井が背いたというのは誤報であろうと思った。けれども、事実であるとの報告が方々からあった。信長は「やむをえぬ」と言って、越前から撤退することにした。金ガ崎の城には木下藤吉郎を残しておき、本隊は四月三十日、朽木元綱の奔走で朽木越えで京都に撤収した〉(中川太古訳)。

 実際、信長には長政の離反が信じられなかったようだ。実の妹を嫁がせた縁戚で、北近江一帯を支配することを認めていたのに、なぜ自分に背く必要があるのか、と。

 信長自身、毛利元就に送った7月10日付の覚書に、浅井は〈近年別て家来せしむるの条、深重隔心無く候き、不慮の趣是非無き題目に候事(近年、自分の家来にして、心隔たりなく付き合ってきたのに、思いがけず理不尽な結果になってしまった)〉と書き、長政の離反に納得がいかない胸中を見せている。

 ただ、太田浩司氏は、信長がこの覚書に記した意識に問題があったとみる。すなわち〈信長は浅井を家臣だと思っていたのである。浅井側にしてみれば、独立した一大名でありながら、秀吉や光秀同様、信長の家臣として扱われる。これが、どうしても許せなかったのだろう。浅井氏は一信長の家臣となることを拒むために、挙兵したと考えるべきだろう〉(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。

 そうだとすれば、信長の慢心が招いた誤算だといえるだろう。

織田か朝倉か選択を迫られて

 長政が信長に離反した理由は、かつてはこう説明されてきた。浅井と朝倉は長いあいだ同盟関係にあり、その朝倉を織田が攻めるという以上、朝倉についたのは当然だ、と――。しかし最近では、浅井が朝倉と事実上の同盟関係を結んだのは、織田と同盟を結んだのとほぼ同時期だったと考えられている。

 だから、長政は迷ったに違いない。柴裕之氏は次のように書いている。〈いずれにせよ、浅井氏はこの時、織田・朝倉両家と両属関係を持つ国衆であったことは間違いない。/そしていま、浅井が関係を持つ織田・朝倉両氏が抗争することになった。この状況下で、浅井氏が領国「平和」を維持していくためには、両属関係のままでは難しく、織田・朝倉両家のどちらにつくか、選択することがせまられた。そして、浅井氏が選んだ「道」は、朝倉家への従属関係を優先することだった〉(『織田信長』平凡社)。

 これに前出の太田氏による次の記述を加味すると理解しやすい。〈元亀元年(1570)四月の浅井長政の決断は、朝倉氏との単一同盟を重視したものではない。武田信玄をはじめとする、本願寺・一向一揆・比叡山・三好三人衆・朝倉氏によって構成された反信長包囲網に加わることを表明したと考えるべきだろう〉(前掲書)。

 この時点では、少なくとも浅井長政の眼には、「反信長包囲網」のほうが勝ち目はあるように見えた、ということだろう。しかも、信長を選べば「家臣」としてあつかわれてしまうのだからなおさらである。

 しかし、信長と対等の同盟を組んでいたはずの徳川家康も、次第に家臣同様にあつかわれるようになったことは、よく知られる。長政もここで選択を誤らなければ、家康同様の立場を手にしたかもしれなかったのだが……。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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