【豊臣兄弟!】出身は美濃、名は「慶」… 吉岡里帆演じる秀長の妻の史実に照らした信憑性
元服後に没したと思われる長男
とはいえ、慈雲院殿の出自はいまのところ、史料からはつかめない。
戦国史研究家の和田裕弘氏は『豊臣秀長』(中公新書)にこう書いている。〈出自については、『多聞院日記』文禄二年(一五九三)五月十九日条に「大納言の御内息災のため、其母は伝左衛門殿の内也」とあり、秀長正室の父は伝左衛門、母はその妻室という意味である。/伝左衛門というのは、秀長周辺の記録に見える神戸伝左衛門と思われる〉
しかし、『豊臣兄弟!』の時代考証も務める柴裕之氏は、この「大納言の御内」とは別の妻(本稿では側室と表記する)である摂取院光秀のことだとしており(『羽柴秀長』角川選書)、同様に解釈している研究者が多い。
結局のところ、現状では出自を突き止めるすべはないが、前述の理由で、美濃三人衆だった安藤守就の娘で名は慶、という設定は、それなりに筋が通ったフィクションだということはできるだろう。
では、慈雲院殿は秀長より何歳年上なのか、年下なのか。いつ結婚したのか。記録はないがヒントならある。
藤堂高虎の一代記である『高山公実録』に記された「郡山城主記」などには、秀長の「御実子早世」のため、天正10年(1582)に丹羽長秀の三男の仙丸(のちの藤堂一高)を養子に迎えたという旨が書かれている。別の史料には「与一郎」という名が記され、「御実子」の名が「与一郎」だったと解釈できる。
秀吉や秀長のような諱(いみな、実名)は伝わっていないが、「与一郎」という仮名(けみょう、通称)がついているので、亡くなった時点で成人していたということだろう。当時は数え年15歳前後で元服するのが一般的で、早くて12歳ほどだったから、天正10年(1582)が没年なら、永禄10年(1567)前後、遅くとも元亀2年(1571)には生まれたことになる。
兄と対照的に女性関係が地味だった秀長
その計算でいけば、秀長と慈雲院殿が結婚したのは、永禄8年(1565)前後、遅くて同11年(1568)ごろになる。ただし、そのとき彼女が何歳だったのかはわからない。前出の和田氏は前掲書にこう書いている。〈慈雲院は『東西歴覧記』『吉田紀行』が引く善正寺の過去帳によると、元和六年(一六二〇)三月二十八日没。同記には、正確には「慈雲院、元和六年三月二十八日 大和大納言母公」としているが、秀長の母(大政所)ではなく秀長正室の慈雲院のことである〉。
残念ながら没年齢はわからないが、仮に70歳だとすれば天文20年(1551)ごろの生まれだ。秀長の生年が天文9年(1540)であるなら、10歳程度年下だったことになる。
ちなみに、与一郎が没したのち、慈雲院殿は男児を授かってはいない。側室の摂取院光秀にも男児が生まれた形跡はない。しかし、天正18年(1590)4月以降、病に伏した秀長が重篤になるたびに、慈雲院殿は平癒のための祈祷を指示しており、秀長とは最後まで、それなりに仲睦まじかったように思われる。秀長は側室の名も摂取院光秀以外に伝わっていない。
何人もの側室がいただけでなく、大坂城内に300人もの妾を囲っていたと伝わる兄の秀吉とくらべると、秀長の女性関係はあきらかに地味だったようだ。その分、慈雲院殿との関係も安定していたのかもしれない。





