「あの監督、のびない奴はしごかないらしいぞ」 「幸福の黄色いハンカチ」撮影中に武田鉄矢の背中を押した「日本を代表する名優」のグッとくるひと言
夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第61回は俳優、歌手の武田鉄矢さん。「金八先生」だけではない、武田さんの深い魅力を探ります。
「野垂れ死ぬまで現役」
武田鉄矢(76)といえば、「3年B組金八先生」がヒットしたことで、「熱血教師」キャラの印象が強いだろう。実際、国立の教育大学に入ったほどだから、根っからの教師気質の人である。
歌手、俳優で一世を風靡したが、読書家で地頭がよく、一家言あるタイプ。それにプラスして、売りは“説教臭さ”だ。
14年に「野垂れ死ぬまで現役」という語り下ろしの連載をやっていただいた。その頃は思想家の内田樹氏に傾倒し、師と仰ぐ内田氏に倣って合気道を始めた後だった。「人生野垂れ死によ、と腹を括った時がもっとも心が弾みます」と心境を語った。
情報番組「サン!シャイン」(フジテレビ)のコメンテーター、BSでは冠歌番組「武田鉄矢の昭和は輝いていた」(BSテレ東)のMCを担当、週刊誌で「五十、六十は鼻たれ小僧 これぞ人生!三枚おろし」(週刊大衆)という、多ジャンルの書籍を紐解く連載を手がけている。野垂れ死にどころか、人生の後半を謳歌している。
武田の人生の大きな転機は2回あった。一つは「母に捧げるバラード」のヒット、もう一つは映画「幸福の黄色いハンカチ」への出演だ。
そもそも、芸能界を目指したきっかけは、いわずもがなの司馬遼太郎著『竜馬がゆく』との出会い。武田には多くの著作があるが、『向かい風に進む力を借りなさい』(ビジネス社)では〈私にとっての幸いは、青春で“手の内に剣を持つ”、その剣に「坂本竜馬」を握ったことでした〉と書いている。
志が盛る青年は大学を中退し、フォークソングブームに乗り遅れまいと追いかけた。しかし、敗色濃厚になる。追い詰められて何を想ったか。タバコ屋、クリーニングの取り次ぎなどをやりながら育ててくれた故郷の母を想う歌に辿り着いた。
海援隊として出した「母に捧げるバラード」は5人きょうだいの末っ子の旅立ちを後押ししてくれた、母親に詫びる歌だったが、「コラッ 鉄矢 何ばしょうとかねこの子は」という泥臭い博多弁とメロディーが日本人の心を鷲掴みにした。それが1973年のこと。
翌74年には紅白歌合戦には出場したが、そこがミュージシャンとしての頂点。前掲書によれば「その時期、確かに千人ほどの観客をライブ会場に集めました。しかし75年から私どもの観客動員は凋落」した。
復活するのは紅白出演から3年後の77年。武田鉄矢、28歳。巨匠、山田洋次監督(94)の「幸福の黄色いハンカチ」に抜擢される。高倉健(14年没)、倍賞千恵子(84)、桃井かおり(74)という名優、新進女優に囲まれた。
この時の経緯が実に興味深い。筆者は「前田吟『男はつらいよ』を語る」という連載を担当した。その中でこんな話がある。
会社を辞めて北海道の旅に出る青年の役には武田の他に西田敏行(24年没)、中村雅俊(75)らの名前が候補にあがっており、前田は渥美清(96年没)に西田のことを訊かれたという。山田監督に寅さんのキャスティングの相談をされることもある渥美が、西田の評判について監督に話をするためだったようだ(渥美は同映画にも出演している)。
ところが、フタを開けてみたら青年役は武田。それも渥美のアドバイスあってのことだろうと、前田は語った。西田は憧れの「男はつらいよ」に出ることが夢だったが、出たのはシリーズでワンシーンだけ。山田監督とは、脚本を同監督が担当した「釣りバカ日誌」で“コンビ”になった。
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