「全財産5000円」「ヤモリとゴキブリが這い回る」極貧家庭から“侍ジャパン”に! 3年連続の開幕投手「宮城大弥」の家族が明かす壮絶な幼少期

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「こんな家に住んでいるの?」と驚かれた極貧生活

 幼少期から野球に魅了され、周囲からも一目置かれる存在だった宮城投手だが、父の享さんが左手に障がいを抱えており、それが原因で安定した職に就くことが難しかった当時の社会状況もあり、宮城家の生活は困窮した。

 夏になると酷暑が続く沖縄県で、一家4人はエアコンすらない6畳一間のアパートに住み、家族全員が足を伸ばして寝ることすらも難しい環境で過ごす日々。暑い季節には、建て付けの悪い自宅のドアにゴキブリとそれを食べようとするヤモリが大量に押し寄せ、今にも地面に落ちてきそうな両者のバトルに怯えながら、団欒を囲むことも珍しくなかった。

「友人に『本当にこんな家に住んでいるの?』と驚かれ、泣きながら帰ってきたこともありました」(弥生さん)

 毎日の衣食住すらままならず、きょうだいの健康を心配する役場の職員が自宅に駆けつけ、「子供達を施設に預けるように……」と説得されるほどの劣悪な環境で過ごしていた。

 だが、「母親は家族の太陽であるべきだと持っていたので、貧乏といえども、持っているお金が少なく、たまに電気や水道が止まるくらいでそれ以外は普通の生活と変わりはありませんから、どんなことがあろうとも1日の終わりに今日を楽しく幸せに過ごせたことに感謝し、明日への希望を抱いて眠る日々を過ごしていた」と話す母の背中を見ていた二人の子供達は、決して現状への不満を口にすることはなく、希望に満ちた日々を過ごした。

沖縄県初の快挙を成し遂げる

 小学校時代は極貧のためユニフォームが買えず、破れた膝を何度も縫い合わせたツギハギだらけのズボンをはいてプレーしていた宮城投手は、中学校入学と同時に硬式野球チームの宜野湾ポニーズに在籍。合宿や遠征が増え年間100万円ほどの費用が必要になった経済的な理由により、宮城投手は軟式野球のグローブでプレーせざるを得ない状況だったが、それでも享さんは、運転手や喫茶店、畑仕事といったありとあらゆる仕事をこなして金銭を工面し、宮城投手の活躍を支えた。

 一方の野球の技術面に目を向けると、中学2年の時に本格的に投手に転向。当初の宮城投手は右投げだったが、左手が不自由で、自身の身体のバランスが崩れていくことを日々実感していた父のアドバイスもあって、日頃から左右双方の手でキャッチボールを続けていた宮城投手は、「左の方が投げやすい」ことに気づき、サウスポーとしてプレーする決断を下す。

 中学2年生で迎えた2015年の夏には、中学野球の日本一を決める第9回ジャイアンツカップに出場。先発として登板し、タイムリー三塁打を放つ活躍を見せたものの一回戦で敗れ、レベルの高さを思い知らされることとなったが……。高いパフォーマンスを見せた宮城投手の元に、一本の電話が入る。

「すぐにU-15日本代表のセレクションを受けさせてほしい……」

 全国の猛者たちが揃うセレクションでは、及川雅貴投手(現、阪神)らと競い合うように、日焼けした小柄なサウスポーが一心不乱にピッチング練習に励む姿や、打撃練習で見せた質の高い飛球に、来場者は一様に驚かされていたそう。

 そこでも高い実力を評価された宮城投手は、見事にU-15日本代表のメンバーに選出。これは沖縄県出身選手としては初の快挙だった。

 家族の全財産が5000円しかない状況で、父から3000円を渡され、食事があるのか不安そうな顔をしながら遠征出かけた宮城投手は、その後も「U-15ベースボールワールドカップ」でキューバ戦を含む3試合に登板。一流のレベルを体感したことで、自身がプロ野球選手に手の届く位置にいることに気付かされることとなる。

「もし、プロ野球選手になれたら、これまで支えてくださった地域の皆さんに一緒に恩返しをしていこう」(享さん)

 その後の宮城投手は、2度の甲子園出場を経て、2019年のドラフト1位でオリックスに入団。エースとして存在感を示し、チームが日本一に輝いたプロ入り3年目の2022年に、父と交わした約束は現実のものとなる。

第2回【「お母さんを必ず甲子園に連れて行くからね」 有言実行のエース「宮城大弥」が家族に目標と明かした「中日レジェンド投手」の名前】では、大弥選手の甲子園への思い、そしてプロになって以降の野球との付き合い方、さらには憧れの選手まで、大弥選手が家族に語った知られざる心の内を伺いました。

デイリー新潮編集部

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