【豊臣兄弟!】ドラマの「信長」「秀吉」は本物に似ているのか? 宣教師が残した生々しい描写をたどる

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自他ともに「醜い」と認めていた

 さて、秀吉はどうか。天正14年(1586)3月、イエズス会の日本準管区長のガスパール・コエリョが大坂城で秀吉に謁見したときの記録には、「関白はあたかもはるかな聖幕屋にあるがごとく、がんらいあまり見栄えのせぬその容貌の特徴は我らの席からは辛うじて識別できるほどであった」と書かれている。「見栄えのせぬその容貌」が、具体的にどうだったのか気になるところだが、翌年、九州征伐に出向いた秀吉を、コエリョたちが訪れたときのことが、こう記されている。

「ルイス・フロイス師が通訳を務めていたが、関白はフロイスに言った。『皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ』と」

 身体は小さく華奢で、容貌は自他ともに「醜い」と認めていたことがわかる。さらに具体的なのは、生い立ちにまでさかのぼって秀吉のことを描写した次の記述である。

「彼は美濃の国の出で、貧しい百姓の伜として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとてはなかったと述懐しているほどである。だが、勇敢で策略に長けていた」

 生まれは「美濃(岐阜県南部)」と書かれている。秀吉の生誕地は尾張国(愛知県西部)の愛知郡中村(名古屋市中村区)とされるが、美濃だという説もないではない。

「ついでそうした賤しい仕事を止めて、戦士として奉公を始め、徐々に出世して美濃国主から注目され、戦争の際に挙用されるに至った。信長は、美濃国を征服し終えると、秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、その封禄を増し、いっぽう、彼の政庁における評判も高まった。しかし彼は、がんらい下賤の生まれであったから、重立った武将たちと騎行する際は、馬から降り、他の貴族たちは馬上に留まるを常とした」

 それなりに出世してからも、信長のほかの重臣たちが騎馬で進行するとき、秀吉一人、馬から降りて進軍したというのである。こうした扱いも、下剋上への野心につながったのかもしれない。

直接会った人物による生々しい記録

 これに続いて、秀吉の容姿が描写されている。

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった」

 後半は悪しざまに描写されている感があるが、小さく、目がとび出し、髯が少ないのは、いまに伝わる肖像画の印象とも重なる。「片手には六本の指」というのは、少し前にデイリー新潮に書いたが、いわゆる「多指症」である(別記事「NHK大河が絶対に描かない秀吉の身体的特徴 信長が呼んだ『六ツめ』」参照)。右手の親指が2本あったことは、前田利家の回想や逸話をまとめた『国祖遺言』(『加賀藩史料』所収)などにも記録されている。

 残念ながら、弟の羽柴秀長の容姿についての記述は見つからない。いずれにせよ、これらは実際に信長や秀吉に何度も会い、会話を交わし、彼らがさまざまな人たちに接する様子も、直接生で観察してきた人物による記録だから、生々しく、貴重である。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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