横尾忠則の芸術の原動力は“矛盾” 「時と場合によって二つの性格を使い分けている」
時々、自分の性格について考えることがあるけれど、どうもわからない。性格は生涯変らないといわれるが、もし、そうだとしたら、考えても仕方ない。もう、これで行くしかないということになりますね。
どうも僕の性格は矛盾に満ちているように思います。二つのものが論理的に整合しないことが度々あります。それを上手く使い分けているように思うのです。もし矛盾のない整合的な性格だったらいつも首尾一貫していて、他人からは評価されるかも知れないけれど僕的には息がつまりそうになって、ワーッと叫んで、筋道が立たない不条理な言動に走りそうな気がします。だから僕にとっては矛盾は健康そのものです。矛盾を肯定した方が生き易いんです。
僕の中には大胆さと用心深さが同居しています。普通なら怖がったり、遠慮したりしてできないことを思い切ってやってしまうところがあります。常識に対して大胆不敵になるのです。かと思うと一方では小心なところがあります。気が小さいことです。だけど大胆になれるのは、潜在的な気の小ささがあるからではないかと思っています。
まあ、こんなややこしい性格とつき合っている自分もシンドイのですが、この矛盾があるのでエネルギーが発散できるのです。エネルギーとは精力のことでしょ? 仕事をする動力になっているのがエネルギーだから、このエネルギーがなければ何もできません。ほっといたら死んでしまいます。こんな風に考えると、やっぱり矛盾は生きるための原動力というか生活必需品です。原動力とは物事の活動を起こす元になる力のことですから、やっぱり矛盾は必要なのです。
このような僕の考え方は、かなり理屈っぽいですが、こうでも考えないと、自分の存在がわからなくなってしまいます。まあ一種の自己肯定ですかね。誰だって自己を疑ってばかりいると落ち込んでしまって、ついには自己否定しかねません。
僕の性格の一部に物事を悲観的にとらえるペシミスティック(悲観主義者)なところがありますが、そんな性格を打ち消すために、オプティミスティック(楽観主義者)な性格に切り換えて、自分を誤魔化すことにしています。時と場合によってこの二つの性格を使い分けているのです。そんな性格を一番よく表わしているのが多分僕の作品で、見れば一目瞭然です。まあ芸術というのは矛盾の産物ですからねえ。
でも矛盾というのは社会的な現場では批判の対象にされています。矛盾のない人間などひとりもいないように思いますし、矛盾が批判の対象になるのは誰もが身に憶えがあるから、だと思うのですが。矛盾だらけで全く筋道の通らないことを言ったり、行ったりする人も確かにいることはいます。だから矛盾を上手にこなせばいいということではないでしょうか。
美術でいえば、矛盾は創作の原理のように思います。整合性のとれた造形や色彩は確かに安心して見られますが、面白くないです。やっぱりどこか不安であったり、変でなければ芸術になりにくいように思います。芸術というのは人間の全ての性格や世界の矛盾が表出したものだと思います。芸術は人間や世界の縮図ですから、何か問題が起こった時に芸術の場で論じると意外と、「あゝ、そうなんだ」と簡単に理解されることが多いように思います。
僕は職業柄というか、何んでも問題が生じたり疑問に思うと、芸術の場というか、芸術的にものごとを考えるくせがついています。
では、芸術とは何かを考えてみましょう。芸術とは一定の主題と、素材や様式を活用して、社会の現実や、社会の求める理想、その矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて描き出す人間の生活上の活動と、その作品を言うのですが、その芸術ジャンルは絵画、彫刻、音楽、映画、演劇、バレエ、建築、写真そして文学などです。
また芸術は何かのため、とか何かの目的のためにあるのではなく、芸術はそれ自体のために存在するものです。
やゝカタイ話になってしまいましたが、この社会、またはこの世界を包括するのは政治や経済ではないのです。芸術なのです。われわれの生活や人生のすみずみにまで芸術は浸透していて、本当は芸術なくして、人間社会は成立しないのですが、現実はそんな風に考えられていないように思います。やはり経済中心の人間社会だと思われています。
完璧な芸術至上主義の世の中になれば、恐らく矛盾で悩むこともなくなるでしょう。僕が美術家の端くれの一人として言っているのではないのです。もし芸術を神と信じる時代が来ればこの世界は平和そのものだと思いますが――。


