「お金がないから高校に行かせられない」…侍ジャパン“次期監督”候補「工藤公康氏」の運命を変えた“意外な人物”の言葉「それなら特待生制度があるぞ」
夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第60回は日本のプロ野球史にその名を刻むレジェンドたちの秘話です。
【写真を見る】すでに実績十分のレジェンドから、指導者として現場復帰を望む声が多い名選手たち
優勝請負人・工藤を生んだ父
有名人でも、とくにスポーツ選手は両親や兄弟に影響を受けて、その世界を極めるパターンが多い。例えば野球の場合、幼少期から親や兄弟を相手にキャッチボールをしていた選手は少なくないだろう。その後、高校野球を経て、さらにプロ野球へと進むことになるのだが、そこには実に様々な家族のドラマがある。
現役時代、11回も日本一に輝き、監督としても日本一を5回成し遂げた工藤公康(62)は、愛工大名電高から西武ライオンズ入りしたが、家庭の事情でそもそも高校進学は諦めていた。5人兄弟。父親からは「うちはお金がないから高校に行かせられない。中学を出たら丁稚奉公に出て働け」と言われていた。
まさしくザッツ・昭和である。その時、まるで連続ドラマ「前略おふくろ様」(日本テレビ)のような光景がよぎったのだろうか、「その瞬間」というインタビューでこう語っている。
「(思い浮かべたのは)丁稚に行った店の裏で白い仕事着を着て、じゃがいもの皮をむいているイメージです」
運命を変えたのは、中学の用務員だった。ハンドボール部に所属していた工藤は、野球部の顧問と掛け持ちしていた先生の一存で強制的にトレードされ、野球をやることになる。そんな工藤がボールを投げる姿を見ていたのが用務員だった。彼は高校野球の監督にツテがあった。
ある日、工藤は用務員から「いい球投げるね」と褒められ、「進学先は決まっているのか」と訊かれた。「中学を出たら働けと言われている」と答えたら、「それなら特待生制度があるぞ」と教えてくれた。早速、そのことを父親に伝えると「お金がかからないなら高校に行ってもいい」と許しが出た。
父親にはさらに悩まされる。騒動にもなったプロ入りだ。「プロで通用するはずがない」という父親に従って熊谷組に入ることが決まっていたが、最後まで諦めない西武の担当者の説得に折れる形で、ドラフト前日にどんでん返し、プロ入りが決まる。工藤は夜中の3時に叩き起こされ、父親に言われる。
「ここに座れ。お前はプロに行け」
工藤は「嘘やろ」と半信半疑だが、父親は「俺の言う通りにすればいい」の一点張り。納得がいかないのでせめてもの反抗で、3日間家出したという。しかし、この経緯がなければ、大投手にして大監督になることはなかった。
名手・宮本を支えた母のひと言
現役時代はヤクルトの名内野手として活躍し、04年アテネ五輪の日本代表主将、06年には優勝した第1回WBCのメンバーとして活躍した宮本慎也(55)は、母親の強烈な言葉を胸に刻んで野球人生を送ってきた。
父親は少年野球の監督。宮本は小3から野球を始めた。ポジションはピッチャー。小6の時のこと。大切な大会の前日に39度の高熱を出した。フラフラだから、翌日の先発はあり得ない。母親に病院に連れていかれて診てもらい、もちろんドクターストップ。「この熱で野球をしたら下手したら死ぬかもしれない」と言われた。
しかし、母親は頑として「マウンドで死ねたら、この子は本望です」と譲らない。結局、解熱剤を打ってもらい、試合で投げ、強豪相手に優勝することができた。
まるで鬼のような母親だが、宮本の野球人生を支える言葉になった。やはり「その瞬間」というインタビューだった。
「この時に思ったのは、投げることができるならどんな状態でもやった方がいいということ。プロになってあの時のことを思えばと、意識はしていなかったけど、自然とできることは可能な限りやるということをやってきました」
ヤクルトでは、野村克也監督時代のこんなエピソードがある。
入団2年目。デッドボールで腕が痛いのを我慢して試合に出続けた。しかし、そのうち手に握力がなくなり、ボールを投げることもできなくなり、その段階で野村監督に事情を説明した。調べたら尺骨の完全骨折。
野村監督は「根性あるじゃないか」と評価してくれたそうだ。
[1/2ページ]



