【ばけばけ】東京帝大の月給が900万円 小泉八雲はセツと子どもたちにいくら遺したのか
熊本の3年間で8,000万円を貯金
松江時代にさかのぼって、ハーンの収入を見てみよう。明治23年(1890)8月31日に松江に到着したハーンは、島根県尋常中学校と師範学校で英語の授業をはじめるが、このときの月給は100円(200万円)だった。その後にくらべると少額のように思えるが、当時の松江では県知事に次ぐ高給だった。
熊本の第五高等中学校(現熊本大学)に転出したのは、明治24年(1891)11月のこと。月給は一気に200円(400万円)に倍増した。熊本ではセツの義父母に義祖父、3人の女中、それに寄宿者まで何人かいる大所帯だったが、これだけ月給があると、暮らしにかなりの余裕があったということだろう。ハーンが友人に送った手紙によれば、3年におよんだ熊本での生活が終わろうという時点で、貯金は4,000ドル(当時の為替で4,000円程度か)あったという。すでに8,000万円も貯めていたのである。
その後、明治27年(1894)10月に神戸に移り住む。神戸では帰化をして、小泉八雲になったうえでセツとの入籍を果たすが、帰化を決断した最大の理由は、遺産が家族に渡るようにするためだった。帰化しないままだと、遺産は3人の異母きょうだいに渡ってしまい、日本の家族にはなにも残せなかったのだ。
このころは貯金だけでもすでに記した金額があり、印税収入もかなりの額に達した。ハーンが西田千太郎(『ばけばけ』で吉沢亮が演じた錦織友一のモデル)に宛てた手紙には、その額は年間「1,300円」、日本研究の大先輩であるB.H.チェンバレンに宛てた手紙には「2,000円」と記されている。前者なら2,600万円、後者なら4,000万円で、こうした金額を考えると、帰化できるか否かは、じつに深刻な問題だったと思われる。
54歳で急逝後も莫大な印税が
東京帝大をクビになった翌年、明治37年(1904)3月からは、早稲田大学で週に2回、講義をすることになった。その収入はどの程度だったのだろうか。だが、9月26日、ハーンは狭心症のために、54歳で急逝してしまう。
その時点で、セツはハーンとのあいだに三男一女をもうけており、ハーンの巨額の財産や印税収入は、幸いにもこの家族のために遺された。それだけではなかった。ハーンの著作のうち『骨董』と『日本――一つの解明』の著作権が、ハーンが没して1年経ってから売却されたが、こうして遺族に渡った金額は2,250ドル(当時の為替で4,000円程度か)、おそらく8,000万円ほどになった。
加えて、『ばけばけ』でシャーロット・ケイト・フォックスが演じたヘブンの友人、イライザ・ベルズランドのモデル、エリザベス・ビスランドは、ハーンの伝記や書簡集である『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』をまとめ上げて出版し、その印税をすべてセツとその家族に贈呈した。エリザベスはセツに宛てた手紙に、「『生涯と書簡』が好評で、あなたとお子さんたちに十分な利益になったことをとても嬉しく思います」(横山竜一郎訳)と書いているから、これもまたかなりの額になったと思われる。
セツの『思ひ出の記』には、こう記されている。「(長女で末っ子の)壽々子の生まれました時には、自分は年を取ったからこの子の先を見てやる事がむずかしい。『なんぼ私の胸痛い』と申しまして、喜ぶより気の毒だといって悲しむ方が多ございました」。たしかにハーンは、「先を見てやる事」はできなかったが、金銭的に支えることは十分にできたと思われる。







