80代になっても「イクラちゃん」 “気持ちがぶれなければ声も変わらない” 桂玲子さんの気概【追悼】

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は2月22日に亡くなった桂玲子さんを取り上げる。

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三つの言葉

 テレビアニメ「サザエさん」の放送開始は1969年。桂玲子さん(本名・金内玲子)は、サザエさんのいとこにあたる波野ノリスケさんの息子、イクラちゃんの声を昨年5月まで50年以上担当した。日本で一番広く親しまれている幼児の声と言っても過言ではない。

 イクラちゃんは1歳半ぐらいの設定である。「ハーイ」「バブー」「チャーン」の三つの言葉しか使えない。桂さんはこの短い言葉の発し方やトーンで喜び、同意、呼びかけ、腹立ちといった心情を豊かに表現した。

 長谷川町子さんによる原作漫画ではノリスケさんとタイコさんの赤ちゃんとして姿を見せるが、名前はない。名付けたのは、放送開始以来脚本を担ってきた雪室俊一さんだ。

 雪室さんが振り返る。

「ベビーベッドに寝ている赤ちゃんを動かしてみませんかと、初代プロデューサーの松本美樹さんから提案されたのが始まりです。名前をイクラにしたのは海に縁がある上、私の子供がイクラ好きだったから。まだ話せなくても相手の言うことは分かっていて気持ちを伝えようとする。そこで三つの言葉を考えました」

 桂さんはすでにさまざまな役の声を演じ、イクラちゃんも自然と持ち役に。前後の流れで雰囲気を感じ取り声色を変えた。

「イクラちゃんはわんぱく小僧。桂さんのおかげで脇役でも物語が生まれてくる面白いキャラクターになった。私が声優の皆さんと会うのは年に1度ほどですが、いつもの声優さんが演じて下さるからと安心して脚本を書けた。信頼できる大切な仲間でした」(雪室さん)

言葉以前の言葉

 37年、福岡市生まれ。高校卒業後、地元の九州朝日放送の放送劇団に入る。4歳年上の俳優、金内喜久夫さんと結婚。上京し夫と共に文学座の研究所に入る。

 役者として歩み始めたが、ロケで遠出するのが嫌で避けるうち声優が仕事の中心に。64年から東京俳優生活協同組合に所属。声優では子供役で重宝され、「サザエさん」につながった。

「イクラちゃんが歩けるようになったのを玄関に置かれた小さな靴で表現した作品では、それに気付いたタラちゃんが驚き、イクラちゃんはちょっと得意でうれしい気持ちになります。そんな心情も桂さんは“言葉以前の言葉”で見事に伝えてくれた」(雪室さん)

 深く考え過ぎるとだめ、声が出なくなってしまう、役の世界にポーンと飛び上がると、生き生き演じられると語った。技術的な発声では作り物になると年を重ねても自分に厳しかった。

「伝わるのは声だけでも役者さんと同じ。声を当てるのではなく役に自然になり切る。置かれた状況を完全につかみ相手役とまさに演技をしていた」(雪室さん)

 マスオさん役の増岡弘さん(2020年に83歳で他界)は同世代の飲み友達だった。

気持ちがぶれなければ

「フランダースの犬」のアロア役と「一休さん」のさよちゃん役では自分の気持ちが出せたと声優を誇りに感じる一方、全身で演技する役者への思いも一時期まであった。夫婦はむつまじく芝居について語り合った。

「(夫の)金内喜久夫さんは文学座に欠かせない存在でした。『藪原検校』では作者の井上ひさしさんが絶賛していたほどです」(演劇評論家の大笹吉雄さん)

 20年、その夫に先立たれた。すっかり落ち込み「サザエさん」で久しぶりに演じるリカちゃんの声の調子が分からなくなったことも。責任を感じ、辞める覚悟もしたほどだ。

 が、気持ちがぶれなければ声は変わらないと、80代半ばを超えてもイクラちゃんの声を違和感なく演じた。もはや分身になっていた。

 昨年、声優を勇退。2月22日、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため、89歳で逝去。

 56年前の放送開始から変わらぬ声優はサザエさん役の加藤みどりさん一人。だが、番組の味わいは不変だ。

週刊新潮 2026年3月19日号掲載

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