女性関係、倒産、息子の死…「萬屋錦之介さん」の激動人生、病魔に奪われた「惚れ惚れする口跡」

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 1997年3月10日、俳優・萬屋錦之介さんが64歳で死去した。その早すぎる死は今もなお、こと時代劇の世界において大きな損失だったといわれている。

 歌舞伎役者の御曹司として生まれたが、映画界に転身して大成功。東映時代劇の黄金期を築き、後にテレビの時代劇ドラマでも数々のヒット作を生んだ。「一心太助」「宮本武蔵」「武士道残酷物語」「長崎犯科帳」「子連れ狼」「鬼平犯科帳」……数多い出演作からベストワンを決めるのは至難の業だ。

 結婚と離婚、再婚、美空ひばりさんとの交流など、私生活の話題も豊富だったが、病魔との闘いでも注目されていた。「週刊新潮」のバックナンバーで後半生を振り返る。

(以下、「週刊新潮」1997年3月20日号「病いとの闘いに敗れた萬屋錦之介の後半生」を再編集・加筆しました)

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御曹司として初舞台

 8時間に及ぶ中咽頭ガンの手術を受けたのは、1996年7月のこと。それから8カ月の闘病生活の末に、萬屋錦之介は力尽きた。享年64だった。

 名女形だった三代目中村時蔵の四男。幼少時に初舞台を踏み、「中村錦之助」として歌舞伎修業を積んだが、主役を演じる機会に恵まれなかった。

 若くして映画界に飛び込み、1954年に「ひよどり草紙」で映画デビュー。「笛吹童子」(1954年)や「宮本武蔵」シリーズ(1961~65年)などで、当代きってのトップスターの座にのし上がった。その後、大河ドラマや「子連れ狼」(1973~76年)などでテレビにも進出。本格派時代劇に欠かせぬ存在だった。

 1962年、父の死後に四代目を継いでいた兄が早世。錦之助(当時)は五代目を襲名せず、1971年には代々の屋号「播磨屋」を脱し、祖母(小川吉右衛門の娘)の生家にちなんだ「萬屋」とした。「萬屋錦之介」と改名したのは1972年のことである。

最も深刻な悩みは病いとの闘い

 本業を離れても、話題にはこと欠かなかった。

 有馬稲子、淡路恵子との結婚と離婚、元宝塚女優の甲にしきとの再婚(1990年)。そして13億円近くの負債を抱えた中村プロの倒産(1982年)と、女性と借金には悩まされ続けたが、後半生での最も深刻な悩みは病いとの闘いだった。

 1982年には、歌舞伎座公演「宮本武蔵」の舞台中に、左目の瞼が閉じてしまう重症筋無力症で倒れ、1年半の闘病生活を余儀なくされる。演劇評論家の水落潔氏は、

「この時期、年に一度、歌舞伎座で歌舞伎と大衆演劇の間をゆく芝居を公演していました。いずれも見事な舞台だっただけに、病いに倒れて頓挫してしまったのは残念なことでした」

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