【ばけばけ】小泉八雲は超子煩悩だったのに…「セツ」が子育てで苦労した面倒な原因

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4人の子どもに恵まれた夫妻

 その後、ハーンは一雄の成長を暖かく見守りながら、松江にいた『ばけばけ』の錦織友一(吉沢亮)のモデルである西田千太郎らに、事細かに様子を伝えている。ハーンのひ孫の小泉凡氏は『セツと八雲』(朝日新書)にこう書く。「子煩悩の八雲は、一雄の最初の言葉は『パパ』でした、と記して西田に書き送ったこともありました。神戸では瀬戸内海から響いてくる汽船の『ポー』という音をまねましたし、単語をたくさん覚えるようになりました。そんな成長ぶりを知らせています」。

 一家は一雄が生まれた翌明治27年(1894)10月に神戸に転居した。そのとき一雄はまだ満1歳に満たなかった。また、『思ひ出の記』にはこうある。「ヘルン(註・ハーンのこと)は朝起きも早い方でした。年中、元日もかかさず、朝一時間だけは長男に教えました」。英語をはじめとする教育にも、熱心に関わろうとしたのである。

 こうして一雄の成長を日々目の当たりにするなかで、ハーンは次第に家族の将来を案じるようになり、自分が日本人になることを真剣に考えはじめる。明治28年(1895)8月には、日本国籍を得るための法的な手続きを開始し、半年後の同29年(1896)2月にそれを終え、晴れて日本人の小泉八雲になった。

 その後、2人はさらに子宝に恵まれた。明治29年(1896)9月に東京に転居したのち、翌年2月に次男の巌が生まれた。同35年(1902)3月には三男の清が加わり、翌36年(1903)9月には長女の寿々子が生まれている。ただ、自分の健康に問題があることを察知していたハーン改め八雲は、53歳のときに生まれた寿々子について、「自分の年齢からして、この子の行く先は見てやれない」と、寂しがっていたという(『セツと八雲』)。

執筆中は子どもの声も苦痛

 だが、いくら子煩悩であっても、ハーンはハーンで八雲は八雲。やはりなにかと偏屈なのである。長男の一雄が学校に通う年齢になると、「ホームスクーリング」と称して朝と夕方に八雲がみずから教えたが、学校には通わせないのだ。日本の教育制度について、「記憶力ばかりを重視して想像力が育まれない」と、近年の日本でもよく聞くようなことをいい、学校を拒むので、セツは近所の手前もあり、かなり苦慮したようだ。結局、何年かして学校に通うようになるのだが。

 また、いざ執筆をはじめると、愛する子どもたちの声もダメ。セツの『思ひ出の記』にはこう記されている。「その書く物は、非常な熱心で進みまして、少しでも、その苦心を乱すような事がありますと、当人は大変な苦痛を感じますので、常々戸の明けたてから、廊下の足音や、子供の騒ぎなど、一切ヘルンの耳に入れぬようにと心配致しました」。

 同じ『思ひ出の記』によると、夕食の準備ができたときは、こんな様子だったという。

「『パパ、カムダウン、サッパー、イズ、レディ』と三人の子供が上り段のところから、声を揃えて案内するのが例でした。いつも『オールライト、スウィートボーイス』といって、嬉しそうに、少し踊るような風で参るのでございます。しかし一所懸命の時は、子供たちが案内致しましても、返事がありません。また『オールライト』と早く返事を致しません。こんな時には、待てども待てどもなかなか食堂に参りませんから、私がまた案内に行きます。『パパさんたくさん時待つと、皆の者加減悪くなります。願う、早く参りて下され。子供、皆待ち待ちです』『はー何ですか』などといっています。『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。おかしいですね』。こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子供泣きます』。ヘルンは『ごめんごめん』などといって、私に案内されて、食堂に参りますが……」

 自分が食事をしたかどうかも、わからなくなるというのだ。セツの苦労がしのばれるが、それも笑い話になるくらい、子どもたちに囲まれた生活は幸福だったのかもしれない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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