「結果が良ければいいじゃないか、という社会に」 横尾忠則が“AIの時代”に危惧すること
毎週悩まされるのはこのエッセイのテーマです。そこでAIを使っている人に、「何を書けばいいか」聞いてもらいました。するとAIは「週刊新潮」の僕の連載エッセイをすでに読んでいたらしく、「テーマがないことを悩みと言いつつ、その日常の些細な出来事や過去の記憶の断片を自在に行き来するスタイルが読者に愛されています」と感想を述べてきました。
そして、「ファンや読者の視点からいくつかの方向性を提案します」と言って、大きく分けて4項目ほど示してくれました。
そこで笑ったのですが、提案されたテーマは僕が単行本ですでに書いたテーマばかりだったのです。他で書いたものを再び「週刊新潮」で書くのも僕としては鮮度がないので、AIが折角提案してくれたけれど、僕にとっては新しい提案ではありませんでした。
僕が期待したのはもう少し予言的なテーマだったのですが、これじゃ、僕がAIになったようなもので、AIに「もっと勉強して来い」と言いたくなりました。AIって結構横着で、もっと未知のアイデアを提案してくれるのかと思ったら、僕の中のレディメイド(既製)のテーマで、これじゃAIに聞かなくても、自分がAIになればいいんじゃないの、と思ってしまいました。
そこで頭に浮かんだことは、AIへの質問ですが、AIはその答えを知っているのではなく、質問者自身の中にその質問の答えをすでに持っているんじゃないかということです。よく、「今晩の献立ては何?」と質問する主婦がいると聞いたことがありますが、その時、AIはこの主婦のデーターをすでに知っていて、そこから割り出した献立てを提案するようです。
確かに献立てを考えるのはメンドー臭いことですが、所詮AIはその主婦のデーターの中からしか発想できないので、わざわざAIに聞かなくても、その時直感した献立てが正解だと思います。しかしAIが提案してくれた方が自分で考えなくてもよく、安心できて自信が持てるのかも知れません。
本当はAIが想像を絶するような前代未聞のアイデアを出してくれればいいのですが、実際は質問者の過去のデーターからしか発想できないのではないかと思います。でもAIは今後もっと進化すると思います。するとAという人の中にないもの、BやCの中にあるものをAの中に導入して、Aの存在をスケールアップするかも知れません。もしかしたら、すでにその域に達しているかも知れませんが。
現在、すでにアーティストはAIを使い始めています。人為的には描けない造型をAIは作成します。そしてAIの描いた絵をそのまま発表する人もいるでしょうし、AI+人為的な技術をミックスして、画家がAIの描いた絵を上から油絵具でなぞってさも画家が描いたように見せる方法で作品を発表している人もいるでしょう。
ここには画家の発想や描写の快感などありません。結果が目的になってしまって、作品が出来上るプロセスに対しての快感は全くありません。今後AIはわれわれの生活の中にありとあらゆる形に化けて日常化して行くことになりそうです。
AIが撮った写真がドイツだったかで問題になったり、日本国内でも小説家が冒頭部分と最後の部分だけを書いて、中味の大半をAIに書かせたという小説が発表されました。これをコンセプチャルと考え、発想を評価する評者もでてくるかも知れません。
僕は生活も人生も、創造も発明も全てプロセスを重視したいのですが、AIの介在によって、プロセスがふっ飛んでしまって、結果だけが目の前に表われ、その結果が良ければ、いいじゃないかという、そんな現実社会が目の前、というか、すでにそんな渦中にわれわれはいるのかも知れません。
従って、今はAIを拒否して生きることができない時代に差しかかっています。AIが便利のいいのは「考える」必要がないということです。また学習して憶える必要もないということです。今後、恐らく人間の考えたことより、AIの考えたことの方が正しいという結果を受け入れざるを得ない時代になります。いや、もうなっているのかも知れません。
さあ、どうしましょう。
なってみないとわからないといいながら、われわれの知らぬところで、すでにそうなっているのかも知れません。僕の周辺でもAIを活用している人がいます。ひとりやふたりではありません。当然のように活用しているのです。僕は今回初めてこのエッセイのテーマをAIに質問しましたが、大抵の人がすでにAIと共生共存の生活をしているということを、ごく最近知って、本当にびっくり仰天しているのです。僕のこんな文章を読んで「遅れている」と言う読者が沢山いるのかも知れません。いやすでにいるのです。


