「噂話の中に人生に役立つ哲学が…」 横尾忠則が“週刊誌”を愛する驚きの理由
僕の愛読書は週刊誌です、と公言していますが、大抵の人は笑います。週刊誌は週に2~3冊は読みます。昔から単行本はニガ手で老齢と共に読書に対する根気がなくなっています。その点、週刊誌はサラッと目を通すだけで、根気よく読むということもありません。
それだけでなく、森羅万象の記事が散らばっているので、退屈することなく、時間つぶしには最高です。そして知らず知らず社会的な知識欲も満足させてくれます。内容の大半は人の噂話ですが、この噂話が結構勉強になるのです。こうした噂話の中に人生に役立つ哲学がそっと隠されているからです。
哲学とは世界、そして宇宙など、人生の根本原理を研究する学問です。それは実証とか経験に頼らないで、頭の中だけで論理的に組み立てた考えをいいます。しかしここでは、もっと軽く、人の噂話の中にも哲学が無意識に隠されているので、その噂話が面白いという程度に考えてもらえればいいと思います。
つまり僕は人のとりとめもないエピソードを哲学として見るのです。すると、何んてことのない出来事や人の考えも、どこか深いところで人生と繋がります。特に週刊誌が売りにしている大特集はスキャンダル記事で、ここには僕の言う哲学がいっぱいつまっているのです。
スキャンダルのテーマは大抵、因果応報、自業自得です。ここには人間の欲が渦巻いています。ひと言で言うと煩悩です。煩悩とは欲望とか執着、または怒り、ねたみの虜になることで、仏教がいましめていることです。因果応報も自業自得も煩悩も全て仏教用語です。
と考えるとスキャンダルは仏教が抱えている問題ということになります。そしてスキャンダルの中には仏教がぎっしりつまっています。そのように週刊誌を考えると、週刊誌は仏典です。難かしい仏教の勉強などするよりも週刊誌を仏教書として読めばこれほど役に立つ書物はちょっと他に見つかりません。だから僕は「週刊新潮」の発売日の木曜日を毎週、千秋の想いで待っています。
因果応報とは、善い行いをした人には善い報いがあるが、逆に悪い行いをした人には悪い報いがあるという仏教の教えです。そしてもうひとつの仏教用語の自業自得とは自分でした悪いことの報いを自分の身に受けることを言います。自分の犯した罪の報いは結局は自分の身に返ってくるということ、「業」は悪い行いに対する報いのことで「因果応報」と同じことです。
スキャンダルの主人公は必らず社会によって罰せられることになります。如何なる小さいコラムも、よくよく読むと、この仏教的法則からズレた結果の記事が多いように思います。別に罪を犯したわけではないけれど、コラムの主人公は、この法則の結果によって悩まされているのではないでしょうか。
そう思って、もう一度週刊誌を開いて、どこからでもいいです、読んでみて下さい。何かしら引っかかるような気がします。週刊誌の文章に棒線を引いたり、再読する人はほとんどいないかも知れませんが、僕はよく赤いペンで棒線を引きます。こんな身近かなところに、こんな重要な問題があると考えれば週刊誌も面白いものです。どんな小さい記事でもいいです。そこには必ず原因と結果があります。
と言っても週刊誌は悪い記事ばかりが掲載されているわけではありません。それはそれで、受け入れて学ぶべきことがあれば学べばいいのです。この世界に悪があるのは善を知るためであると仏教でも説きますが、われわれが健康を害した時、その原因を調べると、病を患って当然のことをしていることを、病気になって初めて知ります。それと同じです。
因果応報、自業自得の問題を考える時、自分の身体の様子について考えると一番よくわかります。僕が病院によく通うのは、もしかしたら病院をお寺と考え、医師を僧侶と考えているのかも知れません。健康とは肉体の悟りだからです。
この肉体の状態を社会や世の中で生活する人間の心身に置きかえて考えれば、因果応報や自業自得といった言葉の意味がわかるのです。そういう意味で芸術は悟りの手段です。何も難かしいことではありません。作品の失敗も成功もそこには全て原因と結果の法則が作用しているのです。
日常生活の中でも悩みはつきものです。でも、その悩みを感情で処理しようとすると、もっと悩みが拡大され、複雑になって、手も足も出なくなります。そんな時、悩みの結果ばかり考えると、問題の本質が見えなくなってしまうのです。そこで、悩みの原因を考える。すると、意外と解決の糸口が見えるかも知れません。因果応報の謎は解けます。すると、悩みが悩みではなくなります。


