「今年こそは天命に従うぞ!」と考えてみては? 横尾忠則が勧める“計画しない”生き方
「一年の計は元旦にあり」は、一年のことは元日の朝のうちに計画を立てて実行すべきであるということです。そこで、今年のビジョンのようなものを描いてみるのですが、もともと計画を実行するような硬い意志は僕にはないのです。そのようなものを立てると、かえって自分に制約を与えることになって、逆に身動きがとれません。
僕は生来、ラテン系の性格なのか、その時々の気分で行動します。従がって計画とか目標を立てても、自分でそれを破壊してしまう厄介な性格の持主らしいのです。自らの考えや行動を限定するものは片っ端から壊す、どこか幼児性のようなものがあります。幼児性の特徴は遊戯性です。遊戯の究極の目的は自由です。子供のように常に自由でありたいという気持が強いせいか、自分を束縛するものは廃除しようという本能が働らくのです。
子供は常に本能のままでいることを求めます。芸術の核はインファンテリズム、つまり幼児性ではないかと思います。自分の中のピーターパンに目覚めることです。現在は何をしてもいいような社会の中に我々は存在していますが、社会は常に我々に制約を加えます。というか、それ以前に自らが自らに制約を加えているのではないでしょうか。
芸術はそのような制約から解放されて自由になるための手段として存在しています。芸術はキャンバスの中だけでの問題ではなく、日常生活の中でも同等の自由な行動をとればいいのです。
話が少し堅くなってしまいましたが、今年の抱負について少し考えてみることにします。基本的に抱負というのはないのですが、何んとなく、こうであればいいかな、という程度のものなら、あるかも知れません。ここ数年立て続けに展覧会が集中していたので一日の大半は絵を描く時間に奪われていました。この欄でも何回も語りましたが、絵を描くことに飽きているのです。
じゃあ、止めればいいのですが、気がつくとまた描いているのです。ご飯を食べなければ病気になって、いずれ死にます。それとよく似ていて、描かないと病気になるのかも知れません。絵はそういう意味で長寿の秘訣みたいなところがあります。まあ、本能ですね。本能とは例えば動物は親に教しえられたわけでもないのに生存のための知恵に従がって行動しますよね。つまり生まれつき持っている性質とか能力です。僕が絵を描くというのもそれに似た本能ではないかと思うのです。
だから本能に従がって生きるということはごく自然な生き方です。というわけで、元旦だからといって、わざわざ、年頭に計を立てる必要もないように思います。計はすでに本能の中に存在しているのです。元旦に計を立てるということ自体が、すでに本能から離れた生き方をしているので、この際、本能を自覚しなさい、そのチャンスが元旦です、と言っているのではないでしょうか。
だから、元旦は本能に戻って、本能を自覚して、本能に従がって今年こそは、そうしましょうという程度に考えていいんじゃないでしょうか。
と考えると僕の本能は生存能力の実現ということになります。つまり絵を描くということになります。天命が与えた仕事は誰にでもあるはずです。その天命が与えてくれた仕事さえやっていれば、いつまでも健康でいられると思います。ところが天命が与えてくれた仕事でないことをやろうとするから、そこに悩みや苦痛を伴って病気になるのです。下手すると死に至らないとも限りません。
世界の人口が80億人だとして、その80億人が全員、画家だったら、間違いなく死活問題に直面して、全員死んでしまうかも知れませんね。と、考えると神か天かは知りませんが、天命は上手いこと全人類ひとりひとりにその人にふさわしい職業を配分してくれているのです。
僕は子供の頃、郵便局員になりたかったのに何んやかんやの難くせをつけられて、とうとう郵便局員にさせてくれませんでした。郵便局員は僕にとって天命ではなかったのです。郵便局員が天命にふさわしくなかったというのではなく、僕にとってふさわしくなかっただけで、郵便局員になって生涯、郵便局に勤めてこられた人は郵便局員という天命に従がっただけのことです。
高卒後、クラスメイトで僕と同じように郵便局員を志望していた友人などはとうとう大阪中央郵便局の局長まで出世してしまいました。僕のもともとの夢は、この友人のような人生を送ることだったのが、天命に従がったばかりに、グラフィックデザイナーになり、その後は画家に転向させられてしまいました。これが僕の天命です。天命に従がったばかりに、この歳まで生かされています。
ですから、新年のビジョンがまだない人は、ぜひ、「今年こそは天命に従がうぞ!」と元旦の計を立てて下さい。間違いないと思いますよ。


