名馬「キタサンブラック」の華麗なる引退 「まだ勝てる」とも考えた馬主・北島三郎、最後に選んだ“引き際の美学”

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素人のど自慢の鐘は2つだった

 仏教の教えからくる「生かされている」という言葉が好きです。「生きなきゃならない」だと、だんだん辛くなってきますが、生かされているんだとなれば、大事だと思えるし、その分ちゃんと生きないといけないとなる。子どものためにも孫のためにも、生意気だけど、世のためにも、人のためにも、生きることが大切なんじゃないかなと。そのためには、やはり、誰であっても、ケジメというものが必要なのではないかと思うんです。

 私は紅白に50回出場させてもらいました。その間、時代の流れとともに、紅白も演歌の世界も、様変わりしました。それならば、ここで一度線を引いてみよう。私が幕を閉じれば、代わりに紅白に憧れている誰かが出場することも出来る。その人が私の代わりに生かされてくれればよい、そう考えたのです。

〈1936年(昭和11年)10月4日、北島三郎こと本名・大野穣は、北海道上磯郡知内(しりうち)村(現・知内町)の漁業と農業を営む家に、7人きょうだいの長男として生まれた。周囲では歌の上手い少年として知られていたこともあり、高校2年の時、「のど自慢素人演芸会」(現「NHKのど自慢」)に出場した。当時、番組の司会を務めていたのは、後に参議院議員になった宮田輝アナウンサーだった〉

 その時の鐘の数は、2つ。私のなかでは、鐘は3つ鳴るんじゃないかって期待していたんですが、アガってしまいました。宮田さんが「いい声をしていたけど、惜しかったですねえ」なんて優しく声をかけてくれましてね。それをまともに受けとめちゃって、この人がこれだけ言ってくれるんだから、歌手になれるんじゃないかって思っちゃったんです。

夢を掴むまでは、二度と帰れない

 のど自慢は友人が申し込んでくれたもので、僕が東京へ行くとなった時、同級生たちの間では、“大野は歌手を目指して上京するんだ”という認識になっていました。自分は長男なので、本来ならば跡を継がなくてはなりませんでした。

 でも、親、きょうだいを捨てるような思いで、函館から津軽海峡を渡って、夢を追いかけてきました。夢を掴むまでは、二度と帰れない、といった思いで故郷を出てきたのです。親父やお袋、きょうだいには申し訳ないと思いましたが……。

〈1954年春、故郷を出た北島。函館港への見送りは父1人だった。絶対に歌手になってみせる、と心に誓い、両親には歌の学校に通うということで上京を許してもらった。最初の1年は新小岩に住み、土日は隣町の平井にある鉄工所でアルバイトしながら、東京声専音楽学校に通った。

 学校はクラシック音楽を学ぶ所でしたから、なんとか流行歌の歌手になるチャンスをと思っていた頃、新聞で「歌手募集」の広告を見つけたんです。演歌師、流しの募集でした。大久保に稽古場があり、新小岩から大久保まで通うのは大変なので、近所のアパートを紹介されて三畳間で暮らすことにしました。

 そのアパートの大家の娘が後に女房になるわけです。アルバイトをしながら、テレビの“のど自慢大会荒らし”もしましたね。優勝すると1000円もらえたんです。今なら1万~2万円といったところでしょうか。そうやって、なんとか生活していました。

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 汽笛鳴らして去って行くとき、辛くて、泣いて泣いて――。第2回【「あいつが代わりに頑張ってくれた」 2017年引退「キタサンブラック」に「北島三郎」が当時捧げた深い感謝】では、キタサンブラックの引退に際し思い出された、少年時代の別離などについて語っている。

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