YMO「幻の4人目」横尾忠則が明かす結成記者会見の“真相” 「細野さんは“自らの音楽をぶち壊そう”と…」
この間、久し振り(でもないか)に細野晴臣さんがアトリエにやってきました。彼とは数え切れないほど(と言っても6~7回)対談をしています。ひとりの人とこんなに対談をするのは珍らしいですが、2人の組合せにメディアは興味があるんですかね。よく同じ企画を持ってくるものだと感心しています。
そんな細野さんと会うと決まって同じ話ばかりになります。70年代の中頃だったか、その頃、僕はよくインドに行っていました。ある時、インドの話を細野さんにすると、細野さんがインドに一緒に行きたいといい出したのです。丁度、レコード会社からインドに行ってインドの様々な音を蒐集して音楽が作れないかという依頼をされていたので、もし細野さんがインドに行くなら、この僕の音楽作りの仕事を手伝ってもらおうと思い、じゃ早速インドへ行こうよということになって、レコード会社の人と、2~3人の友人を誘ってインドに行きました。
インドではどこへ行くのも細野さんと2人で行動していました。この頃、細野さんは「はらいそ」というR&B風の音楽を収録したLPなどを出していましたが、僕はインド音楽とテリー・ライリーをはじめとするミニマルな現代音楽、それにジャーマン・ロックなど、日本のロックファンより、少し先行しているヨーロッパの最先端の音楽を愛聴していました。僕の好みの音楽のレコードは日本では入手しにくいものばかりなので、ドイツにいる日本人の友人から、新譜のレコードを買って送ってもらうのです。
日本で流行っていて誰もが聴いている海外の音楽ではない、例えば、タンジェリン・ドリームとか、クラウス・シュルツとか、クラフトワークなどのジャーマン・ロックをよく聴いていました。
そんな話を音楽家の細野さんにすると、細野さんは初めて聴く音楽家のものばかりだというので、日本へ帰ったら、ぜひ聴いてもらいたいと、それらレコードの何枚かを細野さんに紹介したり聴いてもらったりしたような気がします。
そして、帰国後、いよいよレコードを作ることになりましたが、僕は音楽家ではないので、僕のイメージを伝えるのに大変苦労、というか全く伝えることができず、制作中の細野さんの横でワーワー言っているだけで、細野さんとしては僕の存在が次第に邪魔になっているように思えました。僕としては何んでもいいから従来の細野さんの音楽とは全く別の音楽を求めていたのですが、考えてみれば細野さんは歴とした一流の音楽家なのに、僕は彼をまるで職人か技術者としてしか考えていない、大変失礼なことをしてしまったとハタと気がつきました。
細野さんがしたいことをしてもらう、それを黙って見ているのがプロデューサーの仕事で、2人のコラボかも知れないと、スタジオに顔を出すのを控えることにしました。顔を出すと僕はワーワー言って細野さんを追いつめたり、困らせたりするにきまっている。でもそんなワーワー言う僕の存在を通して、その環境の中から生まれる苦痛に満ちた音楽ができれば彼も僕も満足するに違いないと、わかったようなわからないような状態でできた音楽であれば僕は満足できると思ったのです。
とにかく細野さんのインド体験と僕の小うるさい存在を、腹の底から吐き出してくれればいい。そんな2人の気持を象徴するかのような「何んでも吐き出すものは吐き出したらいい」という僕の言葉を細野さんは音楽の中に「しゃべり」として導入してくれました。
その後の細野さんのテクノポップと称する音楽の誕生は、この「コチンムーン」と題するアルバム曲の誕生によって方向づけられたように思います。この「コチンムーン」はテクノポップを生む切掛になったばかりか、本物のドイツの音楽業界からも注目されるアルバムになったのです。
そんな時、細野さんから、坂本龍一と高橋ユキヒロでグループを結成するので、僕にもそのメンバーになって欲しい。頭髪をテクノカットに、そしてタキシードという条件で「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)の結成記者会見に出席して欲しいといわれました。音楽家でない人間が一人いるグループは面白いと考えたらしいのです。
僕は以前ニューヨークでジョン・レノンとヨーコさんのプラスチック・オノ・バンドのステージにゲストメンバーで出演したことがあります。ジョンは僕のような素人をメンバーにして、自分の音楽をぶち壊そうと発想したのですが、同じように細野さんも、素人の僕をメンバーに入れることで、「コチンムーン」の時のように自らの音楽をぶち壊そうとたくらんだのかも知れません。
結局YMOの記者会見の時間に間に合わなかったことを理由に僕はYMOのメンバーになりそこないましたが、本来は僕を交じえた4人グループだったんですよ。知らない人のために、こんなエピソードを内緒で(?)お伝えしておきましょう。




