「この子は絶対スターになる」 中山美穂さんの“恩人”らがブレイクを確信した日 「歩道橋から光り輝く美少女が見えて…」
長らくショックから立ち直れなかった人もいただろう。昨年、自宅マンションの浴室で亡くなった女優・歌手の中山美穂さん。54歳で急逝した彼女の一周忌にあたる12月6日、都内で“育ての親”も登場するファンイベントが開かれた。
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【貴重写真】あまりにも“美少女” デビュー直後、14歳の「中山美穂さん」
「周防さんから“中山美穂が死んだ”と電話が……」
有志が発起人となって開催された〈美穂ちゃんスーパーファンの集い〉は2部制で、会費は各部6000円。中高年を中心に、東京・秋葉原の会場には全国から筋金入りのファン約100名が駆け付けた。
主催者の一人がまずあいさつ。
「今日は、部屋でしんみりするよりも、みんなで集まってにぎやかに語りあった方が美穂さんも喜んでくれるのではないか。そんな思いからこの集いを開くことにしました」
その後、お茶やジュースを片手にしばしファン同士で歓談したのに続き、メインゲストの山中則男氏(81)がマイクを握った。中山を発掘した育ての親であり、彼女が所属した事務所「ビッグアップル」の初代社長である。
「朝の9時30分ごろ、電話が鳴った。バーニングの周防郁雄さんからでした。“中山美穂が死んだ”と。何を言ってるのか、と思った。名前を間違えているのか、私の聞き間違いか。とにかく信じられませんでした」
その後、何が起こったのかを理解するや、鳴り続ける電話の音から逃れるように、しばらく布団をかぶり横になっていたという。
「後で周囲から聞いたのですが、通夜で私は慟哭(どうこく)していたそうです。“美穂、早く起きろよ!”と泣き叫んでいた、と。私は覚えていないのですが……」
セーラー服に白いマニキュア
中山美穂さんの恩人の話に耳を傾けるファンの表情は、真剣そのもの。続けて話題は彼女の“ブレイク前夜”にも及んだ。
「ある日偶然、渋谷で元部下に会った。彼はドラマの中学生役を探していた。私はハチ公の近くの公衆電話から番組スタッフに連絡して、翌日『毎度おさわがせします』(1985年)のオーディションを美穂が受けることになったんです」
当日、喫茶店で中山と落ち合ったという。
「学校帰りの美穂はセーラー服でしたが、爪に白いマニキュアを塗っていた。私は“落とせよ”と言ったのですが、美穂は“えー、(除光液を)持ってない”と。そのマニキュアが面白いと思われたのか、オーディションに受かって、美穂と私の人生は大きく変わったのです」
「この子は絶対スターになる」
ファン思いだった彼女の逸話も明かす。
「レコード大賞の最優秀新人賞を取った際、祝賀会がいくつかあった。それを私たちは“(美穂が)眠たいから”と早めに切り上げたのですが、実はうちの事務所でファンと会うためでした。彼女は応援してくれる人たちを“スーパーファン”と呼んで大事にしていた。ここにいる、みなさんのような人たちのことです」
また、ブレイク前の写真を撮ったことで知られるカメラマンの鯨井康雄氏も登壇し、こう語った。
「原宿の歩道橋から下を見ていると、光り輝いている美少女がいた。マフラーの巻き方も洗練されていました。すぐに駆け寄り、写真を撮らせてもらいました。名前を聞くと“中山美穂です”と。この子は絶対スターになると思いました」
さらに1部では、山中氏と親交があるというタレントで整体師の楽しんご(46)が中山の楽曲をカラオケで披露。2部には手品師のマギー審司(52)が登場し、十八番の耳が大きくなるマジックなどで場を盛り上げる。
最後は参加者全員で代表曲「世界中の誰よりきっと」を合唱してお開き。ファンの心意気に、誰よりきっと中山美穂さんが喜んでいるに違いない。









