「噂のギャル社長のメールだよ」「日本語、変だよね」 ガングロ、ド派手メイク…19歳を襲った誤解と偏見

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藤田志穂さんインタビュー第2回

 ガングロにド派手メイク……かつて「ギャル社長」としてメディアを賑わせた藤田志穂さん(40)。19歳で起業すると、その強烈な個性と行動力が注目された。だが、華やかなイメージの裏には、誤解や偏見との闘いもあったという。「ギャルだからこそできること」を追い求めたという当時を振り返ってもらった。(全4回の第2回)

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――小さい頃から実業家になりたいという思いはあったんですか。

 全然なかったです。もともと親が夫婦で会社を経営しているのを見ていたので、自分の中で、なんか「ある意味、できるんじゃね?」みたいな雰囲気はあったのかもしれません。

――19歳で起業されたんですよね。当時は珍しかったのでは?

 珍しかったと思います。今は、起業する方もたくさんいますよね。フリーランスもすごく多いですし。

――ギャル社長をやっていた期間はどのくらいですか。

 実際はそんなに長くないんです。19歳だった2005年に起業して、2008年には前の会社を譲って、2009年からは今の会社です。

――「ギャル社長」という名前はどうやってついたんですか。

 当時は「ギャル起業家」と名乗っていたのですが、明石家さんまさんのテレビ番組に出演したことがきっかけで変わりました。隣にお笑いコンビの次長課長さんがいて、「次長課長、ギャル社長」みたいな流れになって、さんまさんが「俺は宴会部長や!」と。そこから「ギャル社長」と呼ばれるようになりました。さんまさんご本人は覚えていないと思いますけど(笑)。

大変なのは「続けること」

――その呼び名をどう思っていましたか。

 本当は恥ずかしかったです。自分から名乗るのも変だと思って……。でも「ギャル社長」と言えば聞いたことある、となって、キャッチーだったので使っていました。そのうち、「赤髪ギャル社長」みたいな方も出てきて、結果的にはよかったと思います。

――社長業はどうでしたか。

 最初は何もわからず、言われる通りに法務局に行って、会社設立の手続きをしました。最初は少人数でやっていましたが、徐々に共感してくれる人が増えて、できることも増えていきました。起業したときは「大変だったでしょう」とよく言われましたが、実際に大変なのは「続けること」です。

――ご苦労もあったでしょうね。

 2011年の東日本大震災の時は、オフィスを一度解約したり、社員の家でミーティングしたりしたこともありました。コロナ禍も大変でしたね。でも、一番ショックだったのは、応援してくれていると思っていた人から陰口を言われていたことに気づいた時です。切なかったですね。

――どういうふうに言われていたんですか。

 昔のことなのであまり覚えていないのですが、一番覚えているのは、親しかった人が「これが噂のギャル社長のメールだよ」みたいに、私のメールを他の人に転送していたことです。私の言葉遣いが完璧じゃないことを面白がって、「日本語、変だよね」とからかわれていたんです。たまたま私もCCに入っていて、そのことを知りました。会社内の人間関係がうまくいかなくなったこともあって、前の会社は人に譲ることにしました。

――新会社では農業事業も始めました。どんな経緯だったのですか。

 祖父がコシヒカリを作る農家でした。でも、後継者がいなくて人に譲ってしまった。身近に感じられなかった農業の問題が、実は自分の実家でも起こっていたんです。「食べたいものは普通に食べられる」と思っていたけど、世の中の問題が自分の家にも起こっていると分かって、「これは動かねば」と思ったんです。

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