嘉門タツオが「万博になりたい」というワケ 2025年も10回超訪問 笑いと“今”のライブを続ける
第1回【嘉門タツオ、替え唄メドレーの原点は「万博」? 21回観に行った少年時代 笑いと音楽の融合を模索して】のつづき
1970年の大阪万博への思い入れがいまだに強い嘉門タツオ(66)。自身の代表作「替え唄メドレー」の原点ともなったが、2025年の大阪万博にもすでに10回以上足を運んでいるという。ライブでは、そうした“今”を取り込んだエンターテインメントを繰り広げる。
万博は素晴らしいもの
万博は素晴らしいもの――。嘉門の“万博愛”の根底には、そんな思いがあるようだ。これまで万博は、国を挙げた技術の粋を見ることのできる存在として続けられてきた。
「1970年の大阪万博では、電気通信館にワイヤレスホンがありましたね。『線がないのに喋れる~』って驚いて。並んだら無料で体験できたので、友達に電話して『おー、俺。万博。ほなな』ってね(笑)。次の日学校で会うから話すこともないのに。それから今回の万博でも『ミライ人間洗濯機』が出ていますけど、当時はサンヨー館の『人間洗濯機』でしたね」
次から次へと思い出はあふれ出す。
「それから全周囲映像が見られるみどり館。三菱未来館では、動く歩道を進みながら台風の目や津波、火山などの映像の中を進んでね。後から、この映像を作ったのが円谷プロだったと聞いて納得しました。古河パビリオンでは、声でロボットハンドを指示してボールをつかみ取る、UFOキャッチャーの原型のようなものもあった。ものすごい予算をかけた日本庭園なんかにはあまり興味はなかったけど、外国人の方にサインをもらったりして、異文化との触れ合いも楽しかった。今年の万博でも、遠足で来た子どもたちがやっぱり外国人にサイン貰うてましたよ(笑)」
空中レストランをはじめ、当時の万博には“誇張された未来”があちこちにあった。異文化が交じり合う様子が「替え唄メドレー」へとつながったというのは、こうした体験から醸成されたのかもしれない。
年齢を重ねても走る
膵炎を患うなど、一時は活動を休止していたが、2024年、65歳の誕生日から本格的に活動を再開した。
「かつて憧れていたお笑いの人やフォークシンガーなど、影響を受けた人たちが異彩を失っていくのを見ると寂しい気持ちになる。一方で、僕の3歳上の桑田佳祐さんや明石家さんまさんは、衰えないどころかますます勢いを増して、走っている。彼らを見て、66歳になったけど、年齢は関係ない、70歳を超えても全然イケるな、と。『沖縄の父』と呼ばれる占い師の福田隆昭さんにも『ピークは84歳です』って言われたし(笑)、江戸時代の儒学者の貝原益軒が『養生訓』を著したのが83歳やって。ならば僕も、音楽と笑いの集大成を84歳で発表できる未来もあるじゃないかとね」
67歳で亡くなった笑福亭笑瓶さんや、64歳で亡くなった桂雀々さんら仲間の分も生き抜いて、さらなる高みを目指すという。
感じ取ったことを音源に封じ込めて
そんな思いを胸に、感じ取ったことをいかに音源としてパッケージ化して届けていくか。2025年3月に発売された34枚目のオリジナルアルバム「至福の楽園~歌と笑いのパラダイス~」も、その延長で制作された。プロデューサーには28年ぶりに田村制作所の田村充義氏を迎えた。
「この新アルバムもそうですが、今はサブスクリプションの時代でもあります。サザンオールスターズが2015年に出した『葡萄』というアルバムをこの間聴いたら、また新しい気持ちで聴けたんです。僕は42年間やってきて34枚のオリジナルアルバムを出しましたけど、その95%ぐらいは“新曲”みたいな感じで聴いてもらえるんじゃないかと思ってます。それも、“その時に感じ取ったこと”をパッケージ化した音源ですからね」
だからこそ、これまで多くのアイデアを出し、試行錯誤してきた。
「特に(元スペクトラムの)新田一郎さんにプロデュースしてもらっていた20年間はすごかったですよ。『明日までにフレーズ50個考えてこい』なんて日常茶飯事でしたから。その中から『43番目のフレーズをもっと膨らましてこい』と言うような人でしたから」
そうして溜まっていったネタの在庫を放出したひとつが「替え唄メドレー」だった。
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