「運動会や遠足の日を待つような気持ち」 元NHK名物実況アナが明かす“相撲愛”
最初は北見放送局
入局後、東京で2カ月間の研修を受けた後、赴任地の内示がありました。日本地図が貼られた教室で、同期15人が順番に呼ばれて、決まった赴任地に自分の名前を書き込んでいくという恒例行事があったんです。
あいうえお順に呼ばれていくんですが、なかなか北見が出てこず、私の番になって「藤井さん、北見放送局放送部に赴任してもらいます」と言われ、「ああ、やっぱり俺だったのか」と思いました。
後から人事部の人に、「北見では、他のテレビ局を見ている人はほぼいない。みんなNHKしか見ていないから、街を歩けば大変な大スターだから気をつけた方がいい」と言われたのですが、実際は誰も振り向きもしませんでした。騙されたなと思いましたね(笑)。
北見には4年間いました。行ってみれば「住めば都」とはこのことだな、と感じましたね。そこにいる人たちの温かさに助けられました。新人だから食べるものもないだろうと、NHKの職員ではないアシスタントの方の家族が、「ご飯、食べに来なさい」と呼んでくれたりしました。
冬は氷点下30度が当たり前の厳しい寒さでしたが、冬はスキーを楽しみ、雪がなくなればゴルフも始めました。遊びに関しては本当に楽しかったです。もちろん、仕事も一生懸命やりましたし、北見で過ごした4年間があったからこそ、今があると思えるくらい頑張りました。
相撲の実況は、昭和59年(1984年)、北見の次の赴任地、京都放送局の途中から担当させてもらうようになりました。もともとスポーツをやりたくて、スポーツアナウンサーのグループに入ることを希望して、入っていました。
当時は今のようにサッカーが盛んな時代ではなく、大相撲とプロ野球が二本柱でした。京都から大阪に転勤した頃は両方を担当させてもらっていましたが、両方のシーズンが重なるとデータ収集だけでも大変で、「そろそろどちらかに絞らなきゃダメだ」と言われました。
野球もやりたかったのですが、やはり子供の頃から好きだった大相撲を選びました。年間90日も放送があるからという“打算”も働きましたね(笑)。当時、プロ野球中継自体がとても少なく、先輩が担当したりして出る幕がありませんでした。大相撲のほうが声を出すチャンスはあるのではと思ったんです。それからは、大相撲を中心に色々な競技を担当させてもらいました。
「ロス」を感じます
あれから41年、相撲への愛情は全く変わらないです。ないと生きていけません。(インタビューを受けている)6月中旬の今、7月場所まではまだしばらく間があり、この時期は一番「ロス」を感じます。千秋楽の翌日には、「ああ、しばらくないんだ」という情けない気持ちになりますね。子供の頃からずっとそうですよ。寂しさを感じ、だんだん7月が近づいてきて、「あと3週間だな」と、運動会や遠足の日を待つような、気持ちが今でもあります。
最近は、70歳手前になり、若い頃と比べて声が出にくくなったと感じています。その原因の一つに、カラオケに行かなくなったことがありますね。アナウンサーになった頃にカラオケが出始めて、歌うのが好きだったので行くようになりました。すると、カラオケが良い発声練習になるとわかったんです。
歌った翌日は声が出なくなるのかなと思ったら、逆で声の出が良いんです。それが、コロナ禍の何年間かでカラオケに行かなくなり、そのまま過ごしているうちに、声の出が悪くなったように感じます。
声が出る限りは、相撲実況は続けたいですね。やはり声が出なくなったらおしまいでしょうから。ただ、死ぬまで相撲の世界には関わっていたいと思っています。
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第4回【「押し相撲」が主流になり、手に汗握る熱戦は減った…元NHKアナが指摘する「力士の巨大化」問題】では、現在の大相撲の構造的な問題について語っている。
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