【べらぼう】橋本愛が演じる蔦重の妻「てい」 史実でも“奇妙なメガネ”をかけた堅物だったのか

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蔦重の死の床にいた史実の「てい」

 正法寺には、震災や空襲などの被害を経て、蔦重の墓石は残されていない。代わりに顕彰碑が立ち、そこには石川雅望と大田南畝による蔦重の墓碑銘が刻まれている。さらにこのような文言がある。「寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った『私は今日の昼時には死ぬよ』身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし」(先述の「蔦屋重三郎と正法寺」に掲載の現代語訳)。

 蔦重は死の床で「てい」と別れの言葉を交わしているのだから、夫婦関係は断絶したりしておらず、むしろ良好だったと考えるのが自然ではないだろうか。子供がいたかどうかはわからない。蔦重が48歳で死去したのちは、番頭が養子になって二代目を名乗っている。ただし、男子に恵まれなかったと考えるのは早計である。当時、子供の死亡率は非常に高かったし、男子がいても家業とは別の道に進むこともあった。

 いずれにせよ、おそらく「てい」という名の女房がいたことだけは、ほぼ間違いなさそうだ。

 では、史実の「てい」は、蔦重が買い取った丸屋の女将だったのだろうか。これについては、『べらぼう』のフィクションだが、荒唐無稽とは言い切れない。

 天明3年の時点で、蔦重は人気作家を大勢かかえ、すでにかなりの売れっ子だったとはいえ、自分ではじめた吉原の小さな書店の主人にすぎなかった。それが創業からわずか10年ほどで、一流の土地である日本橋に店を構えるなど、簡単ではなかった。この時代は、商人の世界も世襲が普通だったことを考えると、蔦重の日本橋進出は、かなりの困難をともなったように思える。

史実の「てい」と近い可能性

 しかも、蔦重は単に店舗と蔵を買っただけではなかったと考えられている。ドラマの時代考証を担当する鈴木俊幸氏はこう書く。「おそらく丸小(註・丸屋小兵衛)が掌握してきた地本問屋としての製作・流通に関わる利権を購求したことにもなるのであろう」(『新版 蔦屋重三郎』平凡社ライブラリー)。

 だが、「てい」が『べらぼう』での設定のように丸屋の女将であったなら、蔦重が丸屋の店舗を買っても、また、製作・流通に関わる利権を手に入れても不思議ではない。その意味で、『べらぼう』が「てい」を丸屋の女将としたことは蓋然性があるし、なかなか鋭い読みにもとづいた設定だと指摘できる。

 ただ、人付き合いがよく、人たらしだった蔦重の女房として、人付き合いが苦手な「てい」が似合うかどうか。そこには賛否両論ありそうに思える。

 いずれにせよ、「てい」が『べらぼう』で描かれるように、教養豊かであったかどうかはわからない。だが、当時の知識人があのような、現代の目から見れば奇妙なメガネをしていることは珍しくなかったようだ。

 江戸時代も半ばになると、江戸や大坂のような大都市では、真鍮や木製のフレームのメガネが売られていた。購入するのは主に知識人や商人、僧侶などで、細かい作業をするときにもちいられ、まさにドラマで「てい」がかけているようなメガネ姿の人物が、当時の浮世絵にも描かれている。

『べらぼう』の「てい」は基本的にフィクションである。しかし、それは史実の「てい」と、あまり遠く離れていないのかもしれない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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