背景には「ブラック体質」「選民意識」「人事制度」 不祥事を連発するテレビ局の「なぜ」

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精神的なプレッシャー

 昔も今もテレビの放送枠自体に変化はないし、1本の番組を作るためのワークフローが大きく変わったわけではない。相変わらずテレビマンは時間に追われていて、過酷な重労働を強いられている。視聴率を取らなければいけないという強迫観念が常につきまとっていて、精神的なプレッシャーも大きい。

 しかも、インターネットの台頭によって、かつて絶大な影響力を誇ったテレビというメディアの力は明らかに衰えている。視聴率は年々低下し、広告収入も下降線をたどる中、現場のスタッフは慢性的なプレッシャーにさらされている。業績が思わしくない中でも、かつての成功体験を引きずったまま、高い成果を求められ続けている。その結果、精神的・肉体的な疲弊が積み重なり、不祥事につながるような判断の鈍りや逸脱行為を誘発している可能性がある。

 また、テレビ業界特有の「選民意識」も無視できない要素である。視聴者に向けて広く情報や価値観を発信する立場にあるテレビ局員は、自らを発信者側として無意識のうちに優位に置いてしまう傾向がある。

 長年、華やかな世界に身を置いて芸能人や有名人や政治家と接してきて、時には彼らと対等に渡り合う立場にあったことから、一般社会の倫理観とは異なる感覚を持ちやすい。こうした特権意識が、法令や社会規範を軽視する土壌を形成している部分もあるかもしれない。

 さらに、局内の人事制度や評価体制にも問題がある。多くのテレビ局では、優秀なディレクターやプロデューサーがそのまま昇進して、管理職や経営層に入っていく。しかし、制作現場と管理業務とでは求められる能力が大きく異なる。結果として、マネジメント能力やリスク管理意識の欠如した人物が重要ポストに就いてしまうことがある。そうした管理の緩さが、局員による不正行為を未然に防ぐ機能を損なっている。

 このように見ていくと、テレビ局員の不祥事は、個人の資質やモラルの問題だけに関連づけできるものではない。むしろ、業界全体に巣くう構造的なひずみが、次第に個人の判断を狂わせて、逸脱行為へと導いている。

 メディアの信頼性が問われる今、必要なのは一罰百戒の厳罰ではなく、組織文化と制度設計の根本的な見直しである。フジテレビの一連の問題においても、そこが核心だったことは明らかだ。テレビ局が再び社会的な信頼を取り戻すためには、自らの足元を見つめ直し、内なる腐敗と正面から向き合う覚悟が求められている。

ラリー遠田
1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務めた。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)など著書多数。

デイリー新潮編集部

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