まだ作曲中なのに予約は100万枚…時代を築いた「AKB48」ヒット作に込めた井上ヨシマサの“叫び”
小泉今日子のアルバムへの楽曲提供から、井上ヨシマサ(58)の作曲家人生は始まった。田原俊彦らへの提供曲はチャートの上位に食い込み、1988年には荻野目洋子の「スターダスト・ドリーム」で初のオリコンシングルチャート1位を獲得。光GENJIの「Diamondハリケーン」、浅香唯の「TRUE LOVE」も続き、20代前半にして売れっ子作曲家の地位を確立した。そこには常に「自分で歌える曲を作る」という思いがあり続けた。(全2回の第2回)
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作詞も含めて作家活動を続ける中、井上はふとあることに気づいたという。
「あれ? 自分のアルバムが何も進んでいないじゃん、と思ったんですよ。26歳のときでした。一度仕切り直そう、まだ結婚もしていなかったので、作家ではなくアーティストとしてやろうと。自分の会社を立ち上げて、音楽ユニットの『ATOM』などを始めました。自分で作る曲については、後悔しないようにしようと思ったんです。アイドルへの曲提供が嫌だったということではなく、“自分のハンコ”を押した作品は後で消したくなるようなものにならないようにしたかった」
そうしてできた曲が1990年にリリースされた森川美穂の「ブルーウォーター」だった。
「周りから見たら、同じことをやっていると思われたかもしれませんけどね。でも自分としてはシンプルで納得できるものが作れた。自分の思うように書いても変な方向に行かないと確信が持てた。ならば曲の注文があれば拒むこともないかなと思ったんです」
秋元康との出会いが……
アーティスト活動と並行して曲作りを続ける中、1994年にはとんねるずへ楽曲を提供した。そこで縁ができたのが、後にAKB48で強力なタッグを組む秋元康だ。以前にも秋元作詞、井上作曲の楽曲はあったが、ここで初めて深く知り合ったといえる。
「『後悔しないようにやっているつもり』というような考えを話す機会があったんです。それから10年ほど経って『1回見に来てくれ』って呼ばれ秋葉原へ行きました。38歳のときでした。本当はその頃、渡米を予定していて、何年か向こうで勝負するつもりだったんです。もしアメリカに行っていたら、その後のAKBの曲は生まれていなかった」
メジャーデビュー直後のAKB48を間近で見た井上は、その後、デビュー後2枚目のシングル「制服が邪魔をする」を皮切りに、多くのヒット曲を手がけていくことになる。
この頃になると、サウンドの再構築作業はもちろんのこと、メロディーも一筆書きでは満足できず、納得いくまで何度も作り直す姿勢になっていたという。
「とはいえサビを変えてみたり、たくさんの時間を掛けてみたりしても、結局、最初に書いたものに戻ることもあるんですけれどね。どういうパターンがいいとは一概には言えないですね。でもAKBの場合、まだ自分が曲を書いている途中なのに、次のシングルが予約だけで100万枚いくと聞かされることもあった。一筆書きで書いたものをこのまま出せない、もっといい曲にしなきゃと(笑)。
AKBのファンには僕と同世代、あるいは少し上のオジサマたちも多いです。かわいい曲でなくても、自分が歌えるもの、自分の気持ちを吐き出せる曲が受け入れてもらえると思っていたんです。もちろん、最終的にアイドルが歌うんですけど、デモテープの段階ではスタッフや秋元さん或いはメンバーが現実の中で吐き出したい思いなどをリアルな歌詞にし、ほぼ自分で自分で歌って仕上げます」
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