“YMOの前座”からAKB48のヒットメーカーへ 井上ヨシマサ、音楽人生の原点は小学生ジャズ

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「Everyday、カチューシャ」や「真夏のSounds good!」といったAKB48のミリオンヒットを手がけたことでも知られる、作曲家の井上ヨシマサ(58)。その活動は1985年の小泉今日子への楽曲提供から始まり、一貫して「自分でも歌える歌」を作り続けてきた。今年2月に発売した「井上ヨシマサ48G曲セルフカヴァー」でもそのコンセプトは窺い知ることができる。井上の音楽観はどのように形作られてきたのか。(全2回の第1回)

食いっぱぐれないように音楽でも

 4人兄弟の三男として生まれた。母は日本人としては最初期のキャビンアテンダントを務めた後、英語塾を開くなど自立心が強かった。子供たちには「勉強が出来なかったり学校を辞めたりしても食いっぱぐれないよう、音楽でもやらせておこう」と、楽器を習わせていたという。井上が選んだのはピアノ。単に楽器を持ち運ばなくていいから、という理由だった。

「譜面だけ持っていけばいいでしょ? でも当時はまだ男がピアノをやってるとからかわれそうな時代だった(苦笑)。小学3年生の頃、テレビCMでサミー・デイヴィスJr.の音楽に出会い、親父にこれは何の音楽だと聞いたら『ジャズだ』と。『じゃあジャズやるわ』と言ったんですよ」

 時は1970年代半ば。小学3年生がジャズを習える環境など普通はない時代だが、通っていた小学校に、駒形裕和氏がいた。子供にジャズを教えるという、当時としては珍しい指導者だった。他の小学校に転勤してしまうという噂を聞いた井上は「僕にJAZZを教えてください」と駒形氏に直訴する。

「『先生、僕どうしたらいいですか?』と聞いたら、『転勤先の西巣鴨小学校に来い』と言われました。そこで、その学校の子たちに交じってビッグバンドのカバーをやることになったんです」

貴婦人の真珠が床に飛び散る感じ

 そのビッグバンド「東京ニイニイゼミ・ポップス・オーケストラ」では、駒形氏の他にも、素晴らしい指導者に出会えた。作曲家・中村八大の兄で、クラリネット奏者の中村二大が講師として来ていたのだ。譜面のコードなどの意味を中村に教わりながら「簡単だな、ジャズって」と思っていたところ、駒形先生に叱られたという。

「書いてある通りに弾いたって、何にもならないんだ、とね。自分で思いつくフレーズ、ありとあらゆるフレーズを弾くんだよっていわれて。まだ小学生だったんで、ポカーンですよね」

 駒形先生は「首飾りを付けた貴婦人がダンスフロアで踊っている最中に、ひもが切れて真珠がパァーンと床に飛び散る――そんな感じで弾け」と言った。大人でも戸惑うような抽象的な指導だったが、具体的な説明はなかった。それでも毎日練習に通い、原曲のレコードを繰り返し聴くうちに、徐々に「こういうことか」と理解できるようになった。先生は誰に対しても同じように指導し、小学生ながらサックスでサブトーンを使い、まるでキャバレーのように吹きこなす子も出てきた。

 この頃、後に、テクノポップバンド「コスミック・インベンション」を組む、ドラマーの森岡みまと出会った。森岡は電子楽器メーカー「ヒルウッド/ファーストマン」の創業者、森岡一夫氏の娘で、「コスミック……」は森岡氏がシンセサイザーを喧伝するために、娘と同年代の少年少女を集めて1979年に結成したバンドだった。クラシックピアノに始まった井上の音楽観は、こうして多様な経験の中で形成されていった。

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