哀れなヒロイン…のぶは完全に“洗脳”されていた 「あんぱん」戦後に待ち受ける“絶望”
哀れなのぶ
のぶも哀れだった。戦争がなかったら、願い通りに体操と学ぶことの楽しさを教える教師になったに違いない。
1936(昭11)年4月の第21回、のぶは家族5人と豪に見送られる中、女子師範の寮に向かった。
「朝田のぶ、ええ先生になれるよう気張ってきます」(のぶ)
希望に満ち溢れていた。ところが担任の黒井雪子(瀧内公美)は、自分の唱える国家主義にのぶが疑問を感じていたため、冷たくする。
1937(昭12)年だった第27回、のぶは体育大会に応募したいと黒井に申し出た。だが、志願理由が国家主義と無縁だったため、「そのへんの野原でも走ってなさい」とあしらわれる。のぶは既に2年生になっていた。
もっとも、豪が出征したことから、のぶが慰問袋をつくり始め、それが新聞に載ると、校長も黒井も態度が一変する。校長は「愛国の鑑だ」と絶賛。黒井のまなざしも温かくなった。
その後、のぶは国家主義に突き進む。無理もない。まだ19歳だったのだ。大人たちに乗せられた。1937(昭12)年の第30回だった。
戦時中に洗脳的な教育を受けたという証言は多数あるが、のぶもそうだろう。黒井はのぶが自分の考え方を曲げぬ間は虐げ、考え方が一致すると好意的になった。洗脳の典型的な手口の1つである。
敗戦後の1945年(昭20)年10月、GHQは国家教育を行った教師の追放を開始する。全国で7000人以上が辞職を強いられた。ほかにも自発的に辞めた教師が多数いた。保護者から糾弾されたからだ。のぶも教師の座にとどまるのは難しいのではないか。
戦争はのぶの夢を破壊しそうだ。なにより辛いのは子供たちに「戦争は日本が勝つ」などと間違ったことを教えてしまったことだろう。
のぶは正義が逆転したときの恐さを、身をもって知ることになる。逆転しない正義のヒーロー・アンパンマンは、嵩1人による創作ではなく、のぶの考えも加わって生まれるはずだ。
嵩の2歳年下の弟・千尋(中沢元紀)の消息は不明である。千尋は京都帝大法学部を繰り上げ卒業したあと、海軍予備学生に志願。海軍少尉として駆逐艦の乗組員になった。
海軍予備学生は約1年間の教育と訓練で少尉に任官する制度。エッセイスト・阿川佐和子氏(71)の父で作家の故・阿川弘之氏も東京帝大国文科を出て海軍予備学生になった。
駆逐艦は魚雷などで敵軍を攻撃する。攻撃力の高い存在だったが、その分、敵軍から狙われやすい。海軍予備学生出身の少尉には、大学で学んだ知識が生かせる後方部隊を希望する人もいたが、千尋はその道を選ばなかった。
千尋は1935(昭10)年だった第18回、父・寛(竹野内豊)に対し、法律家を目指す理由を「社会的に弱い立場にある人たちを救いたい」と熱っぽく語った。自分より階級の低い兵士だけを死なせる気にはならなかったのだろう。
千尋とやなせさんの弟の千尋さんは学歴も経歴も柔道2段という特技もほぼ同じ。千尋さんが乗っていた駆逐艦は台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に沈んだ。骨壺に遺骨はなく、木片が1つだけ入っていた。
やなせさんの著書『ぼくは戦争は大きらい』(小学館)には千尋さんの写真が収められている。読むとハッとする。千尋役の中沢元紀によく似ているからだ。
やや面長の顔も涼しげな目も。中沢はオーディションで役が決まった。本人と似ているところも起用理由だったのではないか。
1937(昭12)年で第27回だった日中戦争の開戦と、1941(昭16)年で第47回だった太平洋戦争の始まりの違いを見せたのも、この物語の特徴だった。大抵のドラマはこれを曖昧にする。
豪の日中戦争への出征式で、団子屋の桂万平(小倉蒼蛙)は「日本の威風を世界に見せちゃれ」と浮かれながら言った。豪にお土産として青竜刀をねだった。深刻にならなかったのは自分の生活には大きな変化がなかったからだろう。
それから4年後の太平洋戦争勃発時には空気がガラリと変わる。ラジオの臨時ニュースで開戦を知った釜次は「いよいよアメリカと戦争か」と神妙な口調で語る。万平はあんぱんが食べられたころを懐かしむ。小麦などが配給制になり、朝田パンは閉じたためである。
太平洋戦争開戦の一因は日中戦争が泥沼化したからだというのが定説。ドキュメンタリーではないのだから細かい説明は要らないが、市民の表情の変化を映したのは良かった。